イエス・キリストの系図
マタイによる福音書1:1〜17(電網聖書)
私が初めて聖書に出会ったのは中学1年生の頃。
学校で友達が持っていたのを見せてもらったのが最初。
それが家にもあるのを発見したのが聖書を読み始めた始まり。
新約聖書の最初が味気のない系図だなんて、読む気なくすよね。
そのとき、我慢できずに読み飛ばしたのが良かった。
そのおかげで、そのときマタイによる福音書、夢中で読みました。
ですんで、私の駄文も我慢できずに読み飛ばしちゃって下さい。
その方が身のためかもしれません。
さて、
味気ない系図ですけれど、いくつか、記者の主張が見えてきます。
(1)
第一に、イエスは、キリストであるという主張。
イエス・キリストという言い方が1章に2回出てきます。
これは、記者の信仰告白。
(2)
それから、
イエス・キリストは、アブラハムの子孫であることと、
ダビデの子孫であるという主張。
(2-1)
アブラハムはイスラエル民族の始祖。
彼は行方を知らず、神の導きに従い、カナンの地に旅した。
その信仰のゆえに義とされ、イスラエル民族の父となった。
イエスは、その信仰の民の末裔として生まれたということ。
(2-2)
ダビデはイスラエル王国を建設した王。
イエスは王であるということ。
そして、救い主(メシヤ)はダビデの末裔として生まれるという予言。
つまり、イエスは救い主(メシヤ)であるという主張。
(3)
ルカによる系図と比べると、
女性の名前が4人あがっていること。
タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテシェバ)。
息子の嫁、売春婦、異邦人、人妻。
いずれもいわくつきの女性たち。
タマルは、ユダの長男の嫁だったが、長男が早死にする。
習慣に従い、次男に嫁ぐが次男も死んでしまったが、
三男のところへはなかなか結婚をゆるしてもらえない。
タマルは体当たりの作戦に出る。
娼婦に化けて、ユダと交わる。
その時に生まれたのがペレツ(パレス)である。
ラハブはエリコの売春婦で、
エリコ侵攻の際、イスラエル軍を助けた。
そのラハブの子がボアズとは・・・
ルツはモアブ人
モアブの地でイスラエル人と結婚したが死に別れ、
姑とともにイスラエルに行き、ボアズと結婚した。
バテシェバは、ウリヤの妻
水浴びしているところをダビデにみそめられる。
夫のウリヤはダビデによって戦争の前線に送られ戦死。
ダビデはバテシェバを妻として手に入れた。
イエス・キリストまでの系図は、
どろどろとした人間模様で染まっている。
聖書記者は、わざわざそれを書き記している。
人のどろどろとした罪や欲望にも関わらずに
脈々と神の導きが続き、
約束の時に至った。
(4)
アブラハムからダビデまで14代、
ダビデからバビロン移住まで14代、
バビロン移住からイエスまで14代。
神の不思議な計画を主張している。
イエス・キリストの時は、来たるべくして来たのだと。
―・―・―・―・―・―・―・―・―
さて、ここから、ハスから読み。
ルカによる系図となんと異なることか。
まあ、ルカがアダムからアブラハムまでの系図を加えているのは
若干の旧約との食い違いがあるとして、問題なしとしよう。
もちろん、旧約と新約での人名の読みの違いは問題にしない。
これは、ヘブル語とギリシャ語の表記の違いによるものだろう。
イエスとジーザスの違いぐらいに思っておけばよい。
アブラハムからダビデまで、
これは、マタイの方は、旧約に一致している。
でも、ルカの方は、1代多い。
ダビデからサラテルまでが問題である。
マタイの方は、ダビデの次代にソロモンをあげ、
ユダ王国の王の系列を示している。
マタイは、イエスがユダ王国の諸王の末裔であることを主張している。
ところがルカの方は、ダビデの次代にナタンをあげ、
無名の人物の系図を上げている。
わざわざ、王の系列を避けたのだろうか?
それから、サラテルとゾロバベル(ゼルバベル)が一致している。
どちらも、バビロン移住後の神殿建設の功労者を上げている。
イエスを神の国の再建者の末裔であることを主張しているのであろう。
ここからがさらに問題。
マタイとルカは全く異なる系図をしるしている。
それも、代の数が全く異なる。倍程違う。
バビロン捕囚がBC597とBC587としたらイエスの誕生まで590年位は経っており、
マタイによると1代が45年位になって、
全ての代で子供を45歳で生むということなので、かなり無理がある。
ルカによる代の数の方が妥当性がありそう。
ヨセフのお父さんの名前がもうすでに違っている。
たぶん、ヨセフが若死にしたため、わからなくなってしまったのだろう。
よく、マタイは父ヨセフの系図で、
ルカは母マリヤの系図をしるしていると聞く。
しかし、聖書を普通に読めば、誰もそれに同意しないはず。
いいかげんな説明はやめて欲しいもの。
系図というものは、男系の血統を示している限り、
さかのぼる道筋はひとつしかないのだ。
ここまで違えば、どちらかが間違っているか、どちらも間違っているか、
二つに一つしかない。
聖書に間違いがあろうはずがないと言う人もいるが、
まず、マタイの系図でバビロン移住からイエスまでは、
どう数えても13代しかないのを見ると、
14代と書いたマタイの数え間違いとしか言いようがない。
マタイの書く14代×3の説には無理がありすぎる。
マタイやルカが故意に系図を創作したとまでは私も思わない。
すでにあった異なる伝承を編集したのだろうか。
マタイは旧約の人物や歴史との結びつきを何とかつけようという傾向がある。
イエスを旧約の預言の成就とみる歴史観によるものだろうか。
要するに、聖書は、
著者が自分の頭で考え、用いうる様々な情報を駆使して、書いたのだ。
しかし、その書き記すという事柄の中に、
聖霊の導きが力強くあったのだと私は信じたい。
つまり、私が聖書を信じるという時、
聖書の一字一句を信じるのではなく、
そこに働かれた聖霊の導きを信じるのだと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかしまぁ、
イエスとヨセフは血がつながっていないのに、
こんな系図、意味があるのかしら。
だけど、血のつながらない親子関係(養子)を認めたら、
系図は複数あっても良いことになりますねぇ。
なお、人名は新改訳聖書による。