いたんだ葦を折ることなく

イザヤ書第42章1〜4節

   見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
   わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
   わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
   彼は国々に公義をもたらす。
   彼は叫ばず、声をあげず、
   ちまたにその声を聞かせない。
   彼はいたんだ葦を折ることもなく、
   くすぶる燈芯を消すこともなく、
   まことをもって公義を打ち立てる。
   彼は衰えず、くじけない。
   ついには、地に公義を打ち立てる。
   島々も、そのおしえを待ち望む。

 3歳3ヶ月になる長男の一輝(かずき)はよく、お父さんに似ているね。と言われるんですけれども、当の本人はお父さんに似ていると言われるのをあまり良く思っていないみたいで、「かずくんは、お父さんに似ていないよ。かずくんは、綿谷一輝やんか。」といつも言います。似ているという意味を良く理解しているのかどうか分からないのですけれども、お父さんに似ているか、お母さんに似ているかということで、本人までも評価されてしまうのがいやで、自分は自分なんだと自己主張しているようで、「かずくんは、綿谷一輝やんか」という言葉にいつも、ほほえんでしまいます。

 私は今まで、一輝が私と似ていると言われることで嫌だと思ったことはないし、また、子供が私と似ていることを嫌がっているのを悲しく思ったこともありませんでした。一輝を見ていると、顔だけでなく性格や行動なんかが私と似ているなあと思うこともあるし、この部分は全然違うなあと思うようなことがあって、不思議だなあと思います。でも、この子は、この子なんだし、自分ではないのだから、この子らしいところを、伸ばしてやれたらいいなと思っていました。いえ、そう思っているつもりでした。

 ところが、先日、実家で泊まったときのことですが、母親と一輝の話をしていたんですけれども、私が、「一輝はとても優しい子でね」と少々自慢げに言うと、母親が、「優しいのは分かってるけど、優しいだけではだめよ。心も身体も強い子に育てないと。」って言ったんです。ところが、その母親の言葉が心にちくっと刺さって、私は話題をそらせました。

 どうしてだか分かります? それは私の子供の頃のことと関係があります。私は、子供の頃、しょっちゅう泣いてばかりいました。弱々しい子で、友達と遊びに行っても、泣かされたり、何かが悔しくて泣き出したりして、泣きながら家に帰って来たりすることが多かったと思います。親に叱られてもすぐに泣いてしまう子でした。また、学校では体育が一番の苦手で、学生時代は授業の中で体育の時間が地獄の時間でした。また、しょっちゅう風邪を引いたり、おなかを壊したり、そんな心の弱さや身体の弱さは、今も克服したとは言えません。

 母親の「優しいだけではだめよ。心も身体も強い子に育てないと。」と言う言葉がそんな自分自身の弱さを、「そんな風になってはダメだ」と否定されているような気がして、とても傷ついてしまったのです。

 子供が自分に似ているということは、そんな自分自身の弱さと向き合っていかなければならないという辛さがあるように思います。


 不思議なもので、子供には自分の嫌な部分ばかり似てしまうと思うことはないでしょうか。逆に、自分の親を見ていて、自分の嫌な部分のルーツはここにあるんだとしみじみと思ったことがあります。

 でも、私たちはなかなか気づくことができないでいるのだろうと思うのですが、良い部分も悪い部分もきっと同じだけ、親から子へ、子から孫へと似ていくのだろうと思うのです。でも、私たちはあまり、自分の良いところがどこなのか気づいていません。ところが、自分の悪いところ嫌なところは気になって気になって仕方がありません。同じように、親を見るとき、子を見るとき、そんな自分自身を鏡に映し出すように見てしまうのだと思います。

 もし、自分の嫌な部分を否定するように、また、自分の子供の似ている部分を否定していったとしたら、その深い心の傷まで、受け継がせてしまうことになります。自分の性格などが遺伝したとしても、弱さはひっくり返せば優しさになりますし、強さはひっくり返せば同情できない冷たさにもなります。弱さを欠点としてではなく、ポジティブに生かして用いることで、長所になる場合もあるかもしれません。でも、心に受けた傷はその人の人生を暗いものにしてしまうかもしれないのです。


 私たち多くの人は、自分の弱さや欠点を見て、心に傷を負ったまま生きています。人の心ない言葉にまた傷つき、自分自身の存在さえも否定された思いに苦しみながら、そして、自分自身の存在を否定してしまうのです。


 今日の聖書の箇所に

  傷ついた葦を折ることなく、
  ほのぐらい灯心を消すことなく、

という言葉があります。


 傷ついた葦は、もうもとに戻らないかもしれない。でも、イエス様はそれを価値のないものとして、折ってしまわれることがありません。ほのぐらい灯心、もう油がなくなりかけて、ちらちらと今にも消えてしまいそうなランプは、いっそ消してしまった方が良いと思うかも知れません。でも、イエス様はけっして消されることがありません。

 たとえ、私たちが自分自身のことを嫌に思い、好きになれず、否定したとしても、イエス様は私たちをダメとは言われません。

 イザヤ書43章4節をご覧下さい。神様は私たちのことを、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」と言って下さいます。

 その声は聞こえないほどに小さいかも知れません。「彼は叫ばず、声を上げず」と書かれています。でも、心を自分にではなく、神様に向ければ、その声は心に確かに響いてきます。

 私たちがどんなに自分の価値を低く見ていたとしても、神様は私たちの本当の価値を見つめ、大切な者として見ていて下さいます。

 私たちのことを大好きだと言って下さるイエス様。その私たち自身のことを、私たちが嫌いだといつまでも思いつづけているというのはどういうことでしょうか。私たち自身が自分の心の中に作り出してきた深い傷、私たちがいつまでも自分の心の中に持っているだけでなく、自分の子供たちにまでも受け継がせてしまっている心の傷を癒し、断ち切って下さるのは、神様の私たちへの愛です。

 神様はその独り子を賜ったほどにこの世を愛して下さいました。イエス様は十字架に架かり、命を捨てて下さるほどに私たちのことを愛して下さいました。そんなひたすら愛し続けて下さる神様の愛をアーメンとそのまま受け取った時に私たちは癒されるのです。

 どうしてそんなに神様が私たちを愛して下さるのか。それは、神様が私たちを作られたからだと思います。

 神様が私たちのことを尊い、大切だ、愛しているといって下さるその愛をそのまま受け入れて生きていきたいと思います。


       以上

       1996/11/24
       主日礼拝
       綿谷 剛





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