穏やかな信頼

イザヤ書30章15〜17節

 今日は、イザヤ書30章から、「穏やかな信頼」ということについて学びたいと思います。

 今日の箇所は、ユダの王ヒゼキヤが、アッシリアの侵攻に対抗するため、もう一方の大国であるエジプトと同盟関係を結んだことが書かれています。

 ヒゼキヤ王のことを列王記や歴代誌で見てみますと、ユダ王国の王の中で大変、信仰深い王ととして描かれており、父のアハズ王がアッシリアの文化や宗教を取り入れて、町に氾濫した不道徳や偶像礼拝を一掃した讃えられるべき良い王として描かれています。

 しかし、今日の箇所イザヤ30章の1節では、「そむける子らはわざわいだ」、新改訳聖書では、「ああ。反逆の子ら。」という、非常に厳しい語調でヒゼキヤ王を非難しています。

 その頃のユダ王国のまわりの政治的状況というのは、ダビデがペリシテ軍と戦っていった頃とは大きく変わっていました。ダビデの頃は、イスラエルの国が、周りの小国や部族国家を戦いや同盟によって従えていき、大きな勢力範囲をもつ国として成長していった時代でした。しかし、ヒゼキヤ王の頃は、北にアッシリアという強大国が起こり、勢力を伸ばしていた時代でした。ダビデの息子であるソロモン王の死後、イスラエルの国は権力争いにより、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれるわけですが、アッシリアの北からの侵攻により、北イスラエル王国が滅び、サマリヤの地は、アッシリアによって陥落し、北イスラエル王国の人々はアッシリアに連れて行かれたのでした。

 そんな中で、ユダ王国は、北の大国アッシリアと南の大国エジプトとの微妙な軍事的緊張関係の中にさらされていた訳です。

 それは、まるで、第二次世界大戦のあとのソ連とアメリカという2大大国の覇権争いの中に翻弄され、国を分裂させたドイツや朝鮮半島、ベトナム等の国々のように緊迫した状況であったのではないでしょうか。どちらかにつかないと世界では生きてはいけない、そんな状況だったのではないでしょうか。そんな中で日本の国は、日米安全保障条約を結び、アメリカの軍事力の傘の下に甘んじる道を選びました。そして日本は経済的には世界で1、2と言われる程の地位を獲得するまでに発展をとげました。そして、多くの人々の生活は向上し、個人的にも自由を謳歌することができるようになりました。

 神様はそんな私たちの国をどう見ておられるだろうか。良しと思っておられるのだろうか。今日の聖書の箇所はそんな私たちに疑問を投げかけていると言ってもいいかもしれません。



 さて、聖書に戻りますが、ユダ王国はアッシリアとエジプトの強大な軍事力の微妙なバランスの中にさらされていました。ヒゼキヤ王の父であるアハズ王は、アッシリアの影響に甘んじたため、国中に異教の影響が入り込みました。国は乱れ、人々の心もバラバラになりました。ヒゼキヤ王は国を立て直すために、異教を禁止し、異教の宗教施設をことごとく排除しました。

 しかし、ヒゼキア王がアッシリアの影響を排除しようとしたことは、エジプトとアッシリアの大国のバランスを崩す結果となりました。アッシリアと対抗するために、彼はエジプトと密かに同盟を結んだのです。

 預言者イザヤは、そのヒゼキヤ王の行動を厳しく非難しています。  どうして、神を頼みとしないのか。どうして、異教の国エジプトを頼みとするのか。アッシリアを頼みとするのも、エジプトを頼みとするのも、神の目から見れば同じことだ。あなたは、父アハズと結局は同じ過ちを犯しているではないか。あなたは神でないものを頼みとしている。軍事力を頼みとしている。あなたが頼りとしようとしているものは間違っていると責めるのです。



 さて、私たちも、自分ではどうしようもないような困難な状況に合うと、人を頼ろうとしてしまいがちです。私も教会で困難な状況が生じると、いろんな先生に電話をしたり、手紙を書いたりして、助けを求めたことが良くありました。これは、信仰生活に限ったことではなく、生活や仕事上の問題が生じた場合でも、そのようにしてしまうのです。そんなときの私たちの心は、全く落ちつきがなく、心が乱れて、このままでは全てが壊れてしまうような不安に襲われて、そして誰かに頼ってしまうのです。

 しかし、今日の聖書はそんなときに、「静かな心でいなさい。穏やかに信頼しなさい」と私たちに語りかけます。

 後から考えると、どうして、まず、神様に祈って、神様に信頼していくことができなかったのだろうと思います。でも、その時には、もう心が乱れてしまって、神様のことを静かに考える余裕さえ持てないのです。たとえ祈っても、心が乱れてしまっているので、祈ったような気がしない。祈りが聞かれたような気がしない。

 しかし、そんなときこそ、無理にでも、強いてでも、心を立て直して、静かに神様を思い、穏やかに神様を信頼しながら、み声を聞くべきではないでしょうか。



 さて、音を録音するときのマイクに2種類あるのをご存じでしょうか。一つは、指向性の強いマイクで、ある一方向だけからの音を録音します。もう一つは、指向性のないマイクで、どちらからの音でも録音され、性能の良いものは、近いところの音も、遠いところの音もきれいに録音されます。私たちの心のマイクは、どんなマイクでしょうか。私たちは心のマイクとして、指向性のあるマイクと、指向性のないマイクをうまく使い分けなければならないのではないでしょうか。

 初めから、指向性の強いマイクを使うと、世の中の最も強い声、不安を煽るサタンの惑わしの声ばかりを聞いてしまい、他の声が聞こえなくなります。間違った情報を神様の声と思いこんでしまうかもしれません。世の中は、「強いことは良いこと。高いこと、長いこと、大きいことは良いこと。多いことは良いこと。速いことは良いこと。持っていることは良いこと。楽しいことは良いこと。気持ちの良いことは良いこと。」そんな一方的なメッセージばかりを送り続けているのです。ですから、最初は、指向性のないマイクで、録音しないといけません。いろんな声が聞こえるはずです。大きい声、小さい声、不安を与える声、励ます声、落ち込ませる声、勇気づける声、甘い誘惑の声、厳しく責める声。この時には、できる限り、心を静かに穏やかにして、かすかに聞こえる神様の真実の導きの声を聞き分けて、耳を傾けることが必要です。

 そして、神様の導きの声を感じたら、その方向に指向性の強いマイクを向けなければなりません。そうすれば、雑音に惑わされることなく、神様の声を聞くことができるからです。

 

 では、どうしたら、そんなに冷静でいられるの? と思うかも知れません。大きな問題や困難が生じたときに、冷静でいられる人はきっと心の冷めた人か何にも感じない無神経な人だと思うかも知れません。確かにその通りかも知れません。

 でも、「信仰とは、まだ見ぬことがらを確信することだ」と聖書は語っています。信仰は理屈を越えます。信仰は感情を越えます。信仰は理性をも越えます。

 私たちの神様は、私たちを創って下さっただけでなく、同じようにこの世界をお造りになった方です。この物質的な世界も、霊的な世界も、時間も、どんな科学の定理や法則も神様の創造のわざの内にあります。私たちの神様が全ての主でおられるということ、そのことを信じていくこと。それに信頼していくことがまず第一に大切だと思います。

 そして、そのお方が、弱い私たちのために、地上にイエス・キリスト様を送って下さったこと。そして、イエス様が私たちの罪を担い、私たちの身代わりとなって十字架にかかって下さったこと。  そして、復活して今も生きておられ、私たちを愛し、私たちのことを心にかけ、私たちと共に、いてくださるということ。

 ただそれだけのことを本気で信じることができるなら、穏やかな信頼をもつことができるはずです。

 もし、私たちが鎧兜をつけ、盾を持っていたとしても、それが敵の剣や槍よりも強いということを知らなければ、私たちは恐ろしくて敵の前に平然と出ることはけっしてできないでしょう。そして、決して負けるはずがないのに、逃げ出したり、敵に屈服するのです。



 しかし、私たちは神様がどんなお方であるか、知っています。この神様から目を離さず、神様の守りの御手の中で、穏やかな信頼を持ち続けていきたいと思います。



       以上

       1996/11/3
       主日礼拝
       綿谷 剛





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