呪縛からの解放

マタイによる福音書 17:14〜20

 さて、今日の聖書の箇所は、イエス様が悪霊に取り付かれた子を癒されたというお話です。
 今日のお話に入る前に、少し、このお話の背景を知っておきたいと思います。聖書の中でマタイによる福音書とマルコによる福音書とルカによる福音書は共観福音書といって、同じような視点からイエス様の活動を記録していると言われていますが、かならずしも、それぞれの出来事が同じ順序で、同じ内容、意味付けで書かれている訳ではなく、それぞれの視点で書かれています。しかし、今日の聖書の箇所は、3つの福音書ともに書かれており、それも、同じ出来事の背景で書かれています。
 まず、マタイ16章13節で、ペテロが「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白をします。
 そして、21節から、イエス様が初めて、自分が苦しみを受けて殺され、三日目に復活されることを弟子たちに打ち明けます。
 ペテロは、そのイエス様の言葉を受け入れることができず、イエス様からひどく叱られます。
 その後、イエス様はペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちを連れて、高い山に登られます。そこで、イエス様の顔が変わり、服が真っ白に輝き、そしてモーセとエリヤが現れてイエス様と語り合うという、いわゆる「イエスの変貌」と言われる出来事があります。
 そして、山から降りてきて、今日の少年の癒しの出来事が起こるわけです。

 この時はただならぬ時であったのです。イエス様の人生もしくはこの世での活動の最後の場面がここから始まっていくという、そういう時なのです。これからイエス様は「十字架での死」に向かって歩いていく。そういう時なのです。
 イエス様は、弟子たちにそのことを伝えました。「私は苦しめられ、殺され、そして三日目によみがえる」 しかし、弟子たちは、全くそれを、その意味を理解することが出来ませんでした。
 これまでのイエス様の活動によって、弟子たちは、イエス様に何を期待していたでしょうか。弟子たちは、自分たちが思い描くことのできる救い主の像をイエス様に映し出していたでしょう。それは、病気を癒し、悪霊を追い出すイエス様。そして、最終的には、この国の王、支配者となり、この国に平和と安定を与えてくれる力強い救い主。そんなイメージをイエス様に映し出していたでしょう。
 しかし、イエス様が言われたことは、「私は苦しめられ、殺され、そして三日目によみがえる」でした。
 彼らは、「苦しめられ、殺され」その言葉だけで、頭が混乱し、あるいは、その言葉に拒否反応を示したことでしょう。受け入れられなかったのです。
 イエス様はそんな彼らに、「あなたがたは、神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました。それは、「あなたがたが私について考えていることと、神様の思いは違う」ということであったと思います。

 イエス様は、わざわざ、弟子たちのリーダーであったペテロとヨハネとヤコブをつれて、高い山に登り、ご自分の「変貌」の姿を彼らに見せることによって、ご自分がただの人間ではなく、神的な存在であること、そして、イエス様のこれからの十字架に向かっていく歩みが、神のご計画であることを、彼らに示されたのです。

 そして、今日の出来事へと続いて行きます。
 ルカによる福音書を見てみますと、イエス様とペテロとヨハネとヤコブが山から降りてきたとき、他の弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していたと書いてあります。
 議論していたというよりも、弟子たちが口のたけた律法学者たちになじられていた、非難の的になっていたと言った方が事実に近いと思います。
 群衆たちはイエス様を見つけて非常に驚きました。まさか、イエス様が来るはずはないと高をくくっていたのでしょうか。弟子たちの無能さをなじり、そのことでイエス様をも非難していたのでしょう。その本人のイエス様が現れたのですから、大慌てです。しかも、イエス様は神々しいばかりの顔立ちとお姿で現れたのですから、驚いたのも当然です。
 イエス様がどうしたんだろうと思って近寄ってみると、一人の男性がイエス様のところに駆け寄って来ました。
 「イエス様、どうか、私の息子を憐れんで下さい。てんかんでひどく苦しんでいるのです。悪霊に取り付かれて、ものが言えないばかりか、霊がこの子に取り付くと、所構わず地面にひき倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして身体をこわばらせてしまうのです。霊は、息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。どうか助けて下さい。 実は、お弟子さんたちに、この霊を追い出して下さるようにお願いしたのですが、おできにならなかったのです。 ですから、イエス様、どうか助けて下さい。」
 それを聞いてイエス様はおこたえになりました。
 「なんと、信仰のない、曲がった時代であろうか。いつまで、私はあなたがたと共にいられようか。いつまであなた方に我慢しなければならないのか。その子を、ここに連れて来なさい」
 そして、イエス様は、引きつけさせている霊に向かって、「わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」と叱りつけられると、霊は叫び声をあげて出ていき、その子は癒されたのです。

 さて、この話の中で、イエス様が「なんと、信仰のない、曲がった時代であろうか。いつまで、私はあなたがたと共にいられようか。いつまであなた方に我慢しなければならないのか。」と言われた言葉は、いったい誰に対して言われたのでしょうか。
 ここで登場している人物は、病気の少年とその親、そして、癒すことが出来なかった弟子たち、それをなじっていた律法学者、イエス様と山から降りてきた3人の弟子、そしてそれをとりまく群衆たちです。
 イエス様は誰のことをこのように嘆かれたのでしょうか。
 普通に考えると、癒すことが出来なかった弟子たちに対して「お前たちは、少年を癒すだけの力が無かった。それは、信仰がなかったからだ」と叱っておられるように読むことができるかもしれません。
 しかし、この部分のある英語の現代訳を見てみますと、「How unbelieving and wrong you people are? 」となっていました。訳しますと、「なんと不信仰で悪いのか、あなたがた、人々は。」ということです。「you people are : あなたがた、人々は。」と訳されているのです。他の現代訳を見ましても同じでした。つまり、イエス様は、「人々全体」に対して、叱りとばしておられるということなのです。

 ここに、一人の少年がいます。彼は幼い時から、病に苦しんでいました。彼は単に身体が弱かったということではありません。単に病気が治らなかったというだけではありません。彼の病気が起こす症状が健康な人には考えられないような行動を生じるものであるがゆえに、他の人々からあらゆる偏見の目で見られていました。「悪霊につかれている」その言葉こそ、彼に向けられていた人々の偏見を良く表していると思います。彼は、そんな人々の目の中でどのような思いで生活をしていたでしょうか。そして、苦しんでいたのは彼だけではありません。彼の両親もまた、人々から、偏見の対象とされていました。親の行いがわるいから、信仰が足りないから、律法を守っていないから、先祖の行いが悪いから、血筋が悪いから、生まれが悪いから、ありとあらゆる人々の心ない憶測の餌食になっていたことでしょうか。
 そして、今、彼らの前に集まっている人々の誰が、彼らのその何重もの苦しみを本当に理解し、それに立ち向かっていたでしょうか?

 癒すことのできなかった弟子たち。彼らはマタイ10章の1節のところで、すでに、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒す権威を与えられていました。彼らは自分たちに病を癒す力があると思っていました。彼らの思いは、その力が自分たちにある。そしてその力はイエス様からいただいたものである。だから、癒すことができるはずだ。ということでした。彼らが見ていたのは、その少年の苦しみではなく、自分たちの力でした。その力があるかどうか、それが彼らの関心事だったのです。
 律法学者たち。彼らの関心事は、イエス様を非難し、宗教界から追放してしまうことでした。ですから、弟子たちが癒しに失敗したこと。このことは、彼らにとってまたとないチャンスであったのです。その少年の苦しみに目を向けるどころか、イエス様のあら探しこそが彼らの最大の関心事であったのです。
 そして、それをとりまく群衆たち。彼らの関心事は、イエス様やその弟子たちが、この少年を癒すことができるかどうか、その力があるかどうかに向けられていました。単に、珍しいもの見たさに集まっていたものもいたと思われます。何かおもしろいことは無いかと思って集まっていたものもいると思われます。少なくともその少年たちの苦しみに目を向けていたものは、ほとんどいなかったと言えるのではないでしょうか。
 
 そんな彼ら全てに対し、「いつまで、あなたがたと共にいられようか。いつまで我慢しなければならないのか。」と嘆いておられるのです。

 イエス様がこれまでに多くの悪霊を追い出し、多くの病を癒して来られました。しかし、それによって、人々が悪霊の追い出しや癒しの力に目を奪われ、その力に期待し、大切なことを忘れてしまうようになることを、強く感じておられました。イエス様は、神様の道、自分の歩むべき道が苦しみの道、十字架への道であることを弟子たちに知らせました。イエス様の歩もうとされていた道は決して栄光の道ではなく、苦しみの道、悲しみの道、ヴィアドロローサであったのです。
 それは、苦しみの中にある人と共に歩むという道、偏見の中であえいでいる人々と共に生きるという道、悲しみの中に沈んでいる人々のそばにいるという道であったのです。

 弟子たちは、あとで、「どうして私たちには癒すことができなかったのですか。」と問います。イエス様は、「それは、信仰が足りないからだ。からし種ほどの信仰があれば、山に動けと命じれば動くのだ。」と答えます。

 イエス様が言われる信仰とは、どういったものなのでしょうか。「神様には病を癒すことができる力がある」ということをどれほど信じたら、癒しができるようになるのでしょうか。
 イエス様は、そういうことではない。と言われているように思います。 イエス様は、苦しみの中にある人と共に歩んで下さる方である、偏見の中であえいでいる人々と共に生きて下さるかたである、悲しみの中に沈んでいる人々のそばにいて下さる方であるということを信じていく信仰。それは、本当にからし種のように、力のないように見えるかもしれない。でも、それは、やがて、人々の心にやどり、人々を動かし、世界を動かしていく。そのような信仰を持ちなさい。と言われているのではないでしょうか。

 イエス様は、悪霊につかれている少年をお癒しになりました。そして、神の祝福の国へと招き入れて下さいました。単に病気が癒されたということではなく、彼ら親子を苦しめていた、偏見や様々な呪縛から解放して下さいました。
 私たちも、単に病気が癒されたとかしないとか、何かの目に見える問題が解決されたかしないとか、そういったことだけに心を奪われることのないようにしたいと思います。そして間違っても、ある人が健康であるかどうかや、暮らし向きが良いかどうか、家庭に不幸がないかどうかで、その人への神様の祝福の度合いを評価したりすることのないようにしなければなりません。
 そして、私たちを苦しめているもの、私たちを束縛しているもの、目に見えないかもしれない、根本の問題全てに神様の哀れみの目が注がれていることに心を向けて行きたい思います。どんな時にも、どんな人にも、その人生の苦しみの中で、イエス様が共にいて下さることを信じ続けていきたいと思います。

1997.1.5



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