主にあっていつも喜びなさい。

ピリピ人への手紙 4:4〜7



「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝を持って祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」ピリピ人への手紙4:4〜7

 今日の箇所は、「喜びなさい」ということが書かれています。
 他の聖書の箇所にも、同様の箇所があります。例えば、有名なテサロニケ人への第一の手紙5:16には、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」と書かれています。
 「いつも喜んでいなさい」「主にあっていつも喜びなさい」ってどういうことでしょうか。どんなときでも喜ばなければならないって、何だか苦痛だと感じたことはありませんか。人に言われたくないことを言われたり、人から誤解を受けたり、また、病気になったり、家族が亡くなったり、今日はY兄が、おばさんが亡くなられたということで、東京に帰られていますけれども、本当に心に痛みを感じておられることと思います。それから、自分の弱さに打ちひしがれたり、そんなときにどうして喜ぶことができるのでしょうか。
 先日、仕事で大変な失敗をしてしまいました。ある方が私の作った指示書をもとに資料を作ったのですが、指示書のたったの一行を見落としていたために、大きな損害を出してしまい、客先に対しての信用を失ってしまうということになってしまいました。私は会社の責任者に呼び出されて、誰でも見落としをしないような指示書を書くようにときつく叱られたのですが、そのとき、「そのミスをした人には責任をとって辞めてもらうから」と言われたのです。ショックでした。悪意をもってしたことだったら別ですけど、普通でしたら、その程度のミスで当事者である個人が責任をとらされて辞めさせられるということは、かつてないことでしたから。だから、責任を感じるばかりでなく、ただおろおろして、どうやったら辞めさせられないようにできるのだろうと思っていました。確認しますと、辞めるというのは本当だったようですが、別の理由によることがわかり、やっとほっとした次第です。
 私たちには、気を滅入らせてしまうようなことがらが、毎日ではないかもしれないけれど、しょっちゅうあるのではないでしょうか。それでもなおかつ、「喜んでいなければならない」としたら、苦痛以外の何ものでもないような気がします。「何も思い煩ってはならない」と言われてもどうしようもないですよね。それでも、喜ぶとしたら、神経が麻痺してしまっているか、錯覚しているか、自分をごまかして、喜んでいるふりをしているかのどちらかだと思います。

 今日の聖書の箇所の少し前のところ、4:2に、ユウオディヤとシュンテュケという女性が出てきます。彼女たちは、本当に熱心な女性信徒で、他の熱心な伝道者たちと協力して、福音のためにパウロと共に戦ってくれたと書かれています。その二人が仲違いをしていました。何が原因かどういう仲違いだったのかは分かりません。教会の中で二人の意見が食い違い、受け入れあうことができず、お互いに苦い思いをしていたのかもしれません。そんな二人に、パウロは、「主にあって一つ思いになりなさい」と仲裁をしています。
 そのあと、「喜びなさい」という言葉が続いているのです。
 二人にとって、喜ぶなんてできないような状態でした。お互いに苦い思いを抱き、どうしても赦せない思いがあったのだろうと思います。
 一つ思いになるというのは、同じ意見になりなさいということではないと思います。もし、そうだとすれば、ユウオディヤが妥協するか、シュンテュケが妥協するか、どちらかですから、「あんたの方が妥協すれば良いのよ」と、最後まで対立が続くでしょう。
 この「主にあって」という言葉の意味を考えたいと思うのですけれど、これは、「神様が私たちを思って下さっている、その神様の思いを、まず思うことから始めなさい。」ということではないだろうかと思います。
 まず、神様が私たちを愛して下さっている。受け入れて下さっている。赦して下さっている。生かして下さっている。そのことをまず思いなさい。ということではないだろうかと思います。
 私たちが、喧嘩していること、仕事に失敗したこと、傷ついていること、病気であること、自分が赦せないこと、人を赦せないこと、それ自体を「喜ぶ」なんてことはきっとできないと思います。でも、そんなありのままの私を愛し、受け入れ、赦し、生かして下さっているお方がある。そこに目を向けることができるならば、そこに主にある喜びを感じていくことができるのではないでしょうか。

 「ただ、事ごとに、感謝を持って祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」と書かれています。もし、私たちが、私たちにふりかかる問題に目をつぶり、喜んでいるふりをしていくことが求められているのだとしたら、その問題のことで神様に祈り求める必要はありません。「問題などない」ということにしてしまうのですから。しかし、私たちには問題があるのです。そしてその問題の中で、神様に何でも求めていいよと言われているのです。
 「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」と書かれています。
 問題のある中、苦しみ、悲しみ、恐れ、不安の中に平安なんて訪れるはずがない時にでも、私たちが、神様が私たちのことを思って下さっているその思いに立ち返るときに、神の平安があると約束されています。そして、私たちの心と思いとを守って下さると約束されています。キリスト・イエス様の愛によって守られるのです。

 私たちは、牧師がいない状態、また、招くことが経済的に非常に困難であるという中で、不安や希望が閉ざされているような思いをいだくことがありますけれども、そんな中にあっても、私たち一人一人が、また、私たちの教会が、神様に守られている、愛されているという「喜び」を土台に、信仰生活を続けていきたいと思います。共に喜び合っていくということを大切にしていきたいと思います。
 人知ではとうてい計り知れないことを神様はきっとご計画されているということを希望として持ちながら、今年度を歩んでいきたいと思っています。

                         以上

                         1997.4.27
                         綿谷 剛



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