主を待ち望め

イザヤ書 40:27〜31




  ヤコブよ、なぜ、そう言うのですか?
  「わたしの道は主に隠されている」と。
  イスラエルよ、どうしてそう断言するのですか?
  「わたしの訴えは神様に顧みていただけない」と。

  あなたは知らないのですか、聞いたことがないのですか?
  主は永遠におられる神様
  地の果てに及ぶすべてのものを創造されたお方。
  弱ることなく、疲れることなく、
  その知恵は、はかり知ることができません。
  疲れた者に力を与え、
  勢いを失っている者に大きな力をお与えになります。

  若者も弱り、疲れ、勇士もつまずき倒れるでしょう。
  しかし、主を待ち望むものは新しい力を受けて、
  鷲のように翼を張って、のぼるのです。
  走っても疲れることなく、歩いても弱りません。


 学生の頃、こんな歌を作ったことがありました。
「いつまで暗い部屋に閉じこもっているの
 重いコンクリートに押しつぶされそう
 窓をそっと開いて明日をのぞいてみよう
 まぶしい陽の光が君を照らすだろう
 解き放たれて、本当の自由に
 鷲のように翼を広げ、さあ飛び立とう、永遠の未来へ」

 この歌は、「神様の希望を伝える」メッセージソングの形になっています。
 でも、歌を作るときの動機というのは、その内容の裏返しということが多いんです。
というのは、確信していることを、誰かにどうしても伝えたかったというよりも、「自分が今、一番求めているもの」が歌詞に映されるみたいなところがあったような気がします。
 このころは、自分の未来に対して漠然とした不安のようなものがあって、どうしても立ち止まってしまい、心を閉ざしてしまう。なかなかそこから出られない。でも、きっと神様はそんな自分に自由を下さって、神様に向かって飛び立つ力を与えてくださる。そんなかすかな期待のような信仰、それが歌になったような気がします。
 まだ、神様がどんなお方で、どんなことを自分自身に対してできるお方であるのかということを良く分かっていなかった。だから、私の信仰は、かすかな期待のような信仰であって、それ以上のものではなかったような気がしています。

 先ほどの私の歌で、 
 「解き放たれて、本当の自由に
  鷲のように翼を広げ、さあ飛び立とう、永遠の未来へ」
 というところがあります。

 これは、イザヤ書40章31節を引用したのですけれども、私は聖書をまだまだ小さく読んでいた、もう一歩良く判っていなかったような気がしています。
 もしも、自分が主を待ち望むことができたとしたら、神様が新しい力を下さって、飛び上がることができる。しかし、自分に主を待ち望むことができるだろうか。もしかして、主を待ち望むことができなかったら、「若者も弱り、疲れ、勇士もつまずき倒れる」とあるように、なってしまう。いやむしろ、それは今の自分の状態そのものかもしれない。そして、もし、力をいただいて飛ぶことができたとしても、自分は神様からあまりにも遠いところにあるので、そのかすかな光をめざして、一生懸命に翼を広げて自分で飛んでいかなければ到達することはできない、そんな風に思っていたような気がします。
 ですから、聖書のそのあとの部分の「走っても疲れず、歩いても弱らない」というところが、そうなればいいなあとは思うけれども、きっと自分だったら疲れてしまうか弱ってしまうかもしれないなあと思って、その御言葉を自分の中でリアリティをもって心に思い描くことができなかったように思います。

 みなさんは、どのようにこの聖書の箇所を読まれたでしょうか?

 少し、横道にそれるかもしれませんが、みなさんに2つの質問をしたいと思います。
 まず、1つ目は、「あなたの神様はどこにおられますか」ということ。
 そして、2つ目は、「あなたにとって神様の大きさはどれくらいですか」ということです。

 「あなたの神様はどこにおられますか?」 どうぞ今、心の中で思い描いてみてください。
 天、宇宙、空中というような答もあるでしょうし、自分の上とか、前、横、後ろとか言う方もおられるかもしれません。
 聖書によれば、父なる神様は天に、子なるキリスト様は神の右に、聖霊様は私たちの内にというのが、基本的真理であると思います。でも、聖書の箇所によっては、神様について「イエスが神の子であると告白する人は誰でも、神がその人の内に留まり、その人も神の内に留まる」とあるところもありますし、イエス様は「私は世の終わりまであなたがたと共にいる」とも言われていますし、聖霊様については、「御霊がはとのようにくだった」とありますから、神様から私たちの間におられるようでもあります。ですから、神様がどこにおられるかということは、なかなか、はっきりとは断言できないものです。
 それでも、神様がどこにおられると、心に思い描いているかということは、とても大切なことだと思います。
 昔の自分は、先ほども申しましたように、神様は自分と遠いところにおられるように思っていました。確かに自分を導いて下さっている神様を信じていたわけですけれども、神様は遠くて現実の存在としてなかなかとらえることが難しいというのが実感でした。ですから、逆にそんな神様に対するあこがれのようなものもあって、信じていたのかも知れません。
 みなさんの場合は、神様はどこにおられるでしょうか。

 2つ目の質問は、「あなたにとって神様の大きさはどれくらいですか」という質問です。神様に大きさがあるのかどうか、少し、ばかばかしいといえばばかばかしい質問かもしれませんが、ぜひ心に神様の大きさを思い描いてみて下さい。
 これも、人それぞれの答があると思います。「そんなもの、この世界を造られた神様は、世界よりも大きい方に決まっている。それに、人の尺度で測ることはできない。」と言われるかも知れません。まったく、その通りです。でも、単にそう頭で考えて納得しているのか、それとも実感をもってその大きさを心に思い描いているのか、ということは全く別のことだと思うのです。
 疲れたとき、弱ったとき、悲しみに打ちひしがれるとき、あらゆる問題に四方八方から塞がれてがんじがらめになって、もだえるほど苦しんでいるとき、そんなときに、自分の信じている「神様の大きさ」によって、試練の受けとめ方、方向、そして結果さえも全く違ってくるような気がします。
 たとえば、これは、一つのイメージですけれども、
 苦しくて苦しくて自分の力ではどうしようもないとき、あの人ならきっと助けてくれると思って、力をふりしぼってその手にすがると、するするっとその手が力無くやせ細って、消えてなくなる。「助けてーっ」と声の限り叫びながら、次の人の手にすがると、するするっとその手が消えてなくなる。次の手も次の手も消えてなくなる。力つき倒れて、ふと気がつくとそこは、神様の御手の上だった。
 そんな神様の御手の大きさ、神様の大きさに始めから気がついていたら、苦しみはどれほど違ったものになっていたことでしょうか。
 
 みなさんにとって、神様の大きさはいかがでしょうか。

 さて、今日の聖書の箇所「イザヤ書40章」に帰りたいと思います。
 
なぜ、「わたしの道は主に隠されている」と言うのですか。
どうして、「わたしの訴えは神様に顧みていただけない」と断言するのですか?。
どうして、私には、苦しみがあるのだろうか、
どうして、神様はこの苦しみを判って下さらないのだろうか
どうして、私には、神様が愛して下さっているという実感がわかないのだろうか
どうして、私は、傷つくばかりで、人を愛し、赦すことができないのだろうか
どうして、私には、人に「証し」できるほどの信仰の力がないのだろうか
どうして、礼拝で、力が与えられないのだろうか

そんなときは、どうか、神様がどこにおられて、どんな大きさのお方なのかを考えて下さい。
 神様は、私たちが苦しんでいるその問題のすぐそばにおられ、私たちの手の届くところ、思いの届くところにおられると同時に、私たちの想像を超えた天の高いところにおられて、私たちをその大きな力で引き上げてくださるお方であることを、どうぞ、心に思い描いて下さい。
 そして、神様はどれほど大きなお方であるのか、永遠におられ、宇宙の創造者である方のその御手がどれほど力強く、頼りがいがあるかを心に思い描いてみて下さい。神様は、弱ることなく、疲れることもありません。その御腕は消えてなくなることはないのです。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもお出来になるからである。」また、「神にできないことは何一つありません。」そんな神様を心に描いてみて下さい。
 そしてまた、そのお方が5羽で2アサリオンという「ただ」同然の値段で売り買いされ、1羽では値段がつけられないような雀の命さえ顧み、また、明日には焼かれてしまうような野の花でさえ美しく飾り、そして、私たちの髪の毛の1本1本までいとおしんで数え知っていて下さる神様の心の繊細な暖かさをぜひ思い描いてみて下さい。
 神様は、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力をお与えになるのです。

「若者も弱り、疲れ、勇士もつまずき倒れるでしょう。」と書かれています。でも、これは、「弱り、疲れ、つまずき倒れるような人は信仰のない弱い人だ」と批判しているのではありません。そうではなく、「どんな人であっても弱り、疲れ、つまずき倒れるだろう、たとえそれが、元気な若者であったとしても、健康で身体を鍛えた勇士であっても、きっと、いつか弱り、疲れ、つまずき倒れる、ましてや普通の人は弱り、疲れ、つまずき倒れても仕方ない、当然なんだ。神様はそのことを分かっておられるよ」と心からの同情の思いをもって聖書は語っているのだと思うのです。

 「しかし」と聖書は語ります。
「主を待ち望むものは新しい力を受けて、
鷲のように翼を張って、のぼるのです。」
 みなさんは、鷲の飛ぶ様子をご覧になったことがあるでしょうか。
 雀の飛び方なら良くご覧になると思いますが、雀は、パタパタッ、パタパタッと2〜3回ずつ細かに始終はばたきながら飛びます。カラスはというと、少しゆっくりとパータパータパータパータと羽を動かしながら飛びます。どちらも羽をいつも動かしていないと飛んでいることができません。また、ハチドリという小さな鳥をご存じでしょうか、ヘリコプターのように空中に静止しながら、くちばしを伸ばして花の蜜を吸うのですけれども、空中で静止するために、1秒間に何10回、何100回か知りませんけれども、人の目に止まらない程の速さで羽ばたいて飛びます。そうしないと、落ちてしまうのです。
 しかし、鷲が飛んでいるところを見るとほとんど羽ばたくことがありません。それは、谷間から吹きあげる上昇気流に乗って飛んでいるからです。もし、上昇気流がなかったら鷲であったとしても一生懸命はばたかないと飛べないでしょうし、あんなに悠々と、あんなに長い時間飛んでいることはできないのではないでしょうか。
 この上昇気流こそ、神様が下さる新しい力であり、イエス様が十字架にかかって自ら犠牲となって私たちの罪を贖って下さった救いの力であり、私たちに永遠の命を与える御復活の力ではないでしょうか。
 「主を待ち望む」というのは、「いつかたぶん主が来て助けて下さるだろう」といって待つのではなくて、「今、主が私に関わってくださり、全てをご存じであり、私の問題を解決して下さる方である」ということを確かなリアリティ「事実」として心に思い描き、そして、主を心から信じ、心から頼りきること、そういうことを言っているのではないでしょうか。
 しかし、「信じたら、神様が天から力を与え助けて下さる。だから信じなさい」ということではありません。私たちが信じても信じなくても神様は力あるお方であり、私たちを助けることのできるお方です。聖霊様の上昇気流はいつでも力強く吹いているのです。その御霊の風に信頼し、断崖絶壁の崖を蹴って、翼を広げられるかどうか、一歩踏み出すことができるかどうか、崖から飛び降りることは一見恐ろしいことです。ただただ、それは神様を信頼しなければどうしてもできないことなのです。
 翼を広げて一歩踏み出すことができさえすれば、自分の力で必死になって羽ばたかなくても、聖霊様の上昇気流に乗って飛ぶことができるのです。
 そして、「走っても疲れることなく、歩いても弱りません。」と約束して下さっているのです。
 私はこれを、変な言い方ですが、「疲れても疲れず、弱っても弱りません」と言い直したいと思います。パウロはローマ人への手紙の中で「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。そして希望は失望に終わることがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と語っています。
 しかし、主を待ち望まなければ、苦難はいつまでも苦難のままであり、希望となることはありません。神様に向かって一歩心を踏みだした時、聖霊様の力によって、神様がどれほど私たちを愛して下さっているかに気づき、その愛を私たちの翼にいっぱいに受けることによって、希望を持つことができるのです。神様に目を注ぐとき、私たちの側の問題は取るに足りないものとなるのです。私たちの弱さを嘆くことはありません。むしろ、その弱さにこそ神様が働いて下さると聖書は語っています。

 でも、どうやったら、神様を大きく、力強く、偉大な、頼りがいのある方であると心に思い描き、その神様に目をそそぐことができるのかと言われるかもしれません。
 当たり前のことですが、聖書の御言葉を読むことがやはり大切だと思います。頭で理解し、神様の姿をできるだけ正しく捉えていことは勿論のこと、神様のなされたことや、神様の思いを心で読んで、神様のイメージを心に焼き付けていくことだと思います。
 そして、讃美することがとても大切だと思います。ただ、メロディーをたどることや、歌詞をたどっていくことだけでは不十分だと思いますが、神様に向かって、心をそそいで讃美すれば、神様への思いは高く高く上がっていくと思います。私は讃美歌には縦の讃美「バーチカルプレイズ」と横の讃美「ホリゾンタルプレイズ」があると考えています。縦の讃美は神様に向かって感謝し、偉大さを讃えたり、神様がして下さった業をほめ歌う讃美であり、横の讃美は人に神様のすばらしさを伝えたり、また、罪の悔い改めを促したりする讃美です。縦の讃美にも上向きの縦と下向きの縦があるように思います。ぜひ、上向きの縦の讃美を心からささげて、神様への思いを高く高く持っていきたいと思うのですがいかがでしょうか。
 そして、何よりもお祈りするということをもっともっと大切にしていこうではありませんか。祈ることは、神様に頼ること、主を待ち望むことです。アテネの人々のように「知られない神に」向かうように祈るのではなく、リアリティに満ちた方として、心から頼れるお方として祈りましょう。神様に信頼し、心を明け渡して祈ることは、信仰の翼を広げて断崖絶壁から一歩踏む出すのと同じことだと思うのです。全ての問題を神様のところへ持っていきましょう。ペテロの第1の手紙は「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」と語っています。私たちを愛して下さる神様は私たちに最善以下のことをされるはずがないことを信じながら、祈りましょう。

 最後に1ヶ所、ヤコブの手紙の5章13節からお読みして終わりたいと思います。

 あなた方の中で苦しんでいる人があれば、祈りなさい。
 喜んでいる人は讃美の歌を歌いなさい。
 あなた方の中で病気の人があれば、教会の長老を招いて主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起きあがらせて下さいます。
 その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます。
 だから、主にいやしていただくために、罪を告白しあい、お互いのために祈り合いなさい。
 主のみこころにかなった人の祈りは非常に力強い働きをするのです。


                   以上


                    1996年2月11日

                        綿谷 剛



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