どの木からでも食べて良い

創世記2章16節




 主なる神はその人に命じて言われた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。」

 みなさん、おはようございます。
 第5週の聖日は信徒説教をするということになりまして、今日は私がここに立つことになりました。
 あれは、いつだったか、ある朝、会社に行く前に髪をといていたんです。するといきなり、今日の聖書のみ言葉がふと頭に浮かんできたんです。
 「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。」
 あんまり、信仰が訓練されていないせいか、こんな風に聖書の言葉がいきなり飛び込んでくる事って滅多にありません。心に問題を抱えているときに聖書の言葉が助けになったということは良く聞きますけれども、こんな風何の脈絡もなしに唐突にみ言葉が浮かぶっていうことはあまりないことと思います。
 このみ言葉が今までずっと心から消えないんです。何なんだろう。何なんだろうって考えていました。

 先日、今治の牧師就任按手式に行った帰りに、中村先生に信徒の人も自分の信仰告白を書いてみたら、自分が問題としていることが良く分かって良いよと言われました。そこで、信仰告白を書きつつ、自分のこれまでの信仰について考えてみたんです。すると、いろんな信仰を経て来たなあと思わされました。
 私は、ごく普通の福音的な信仰の中で育ったと思います。バプテスト主義というのを意識したのは、バプテスマの準備をしていたころでしたから、求道中の8年位の間はそういうものに無関心にただ、イエス様というお方を求めていたと思います。

 高校の時に、カトリック信者である遠藤周作さんの「沈黙」という小説を読みました。キリシタン大迫害の時代、次々と残酷な方法で信者が殺されていく。しかし、神は沈黙を守られる。宣教師が信仰と愛の狭間で苦悩した挙げ句、これ以上犠牲を出さないために踏み絵を踏む。心が激しく傷む。その時、神が宣教師に沈黙を破って語りかける。「それでいいんだよ。」 これを読んだときにショックを受けるとともに涙が出て、涙が出て、止まりませんでした
 それから、イエスの生涯、キリストの誕生、死海のほとり、等を読みました。奇跡などたった一つもなさったことがなかった。病を癒されたことも一度もなかった。イエスは、他の人々が見放した人たち、伝染病にかかって誰もよりつかなくなりただ死を待つだけの人たち、罪人と呼ばれ、人々から忌み嫌われ、相手にされなかった人たち、そのような人たちのところへ行き、ただそばにおられた。ただ一言二言優しく声をかけられた。そしてそのようにイエスと出会った人々は二度とイエスが心から離れることはなかった。感動してしまってどうしようもありませんでした。同伴者イエスそれが、遠藤周作さんのテーマだそうです。

 それから、大学に入って、教会の青年会活動に出るようになりました。関西地方連合の青年会の修養会や、全国青年大会に出るようになったのですけれども、そこでは私にとって驚くべきことが話されていました。それは、被差別部落の問題であったり、日雇い労働者の問題であったり、障害者差別の問題であったり、また、日本の繁栄は東南アジアの人々の犠牲の上になりたっているというようなことであったり、そのような社会問題がテーマとして取り上げられ、クリスチャンとしてどう生きるべきかということが討議されていました。
 イエス様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれた。私たちは豊かな生活の中に安穏としてはいけない。そんな人々と共に生き、そんな人々の視線に立って生きなければならない。そしてそんな人々が生き生きと生きていける社会を作っていかなくてはならない。私たちはクリスチャンとしてその担い手になっていこう。ということでした。
 私は、信仰が心だけの問題になっていて、自分たちが生きている社会生活の中で生かされているかということが問われました。ショックを受けつつもとても惹かれるものがありました。そして、リベラルな部分の信仰が形成されていったのでした。
 でも、すべてを受け入れたわけでもなかったのです。
 ある人がその修養会で、「こんな社会問題ばかりだけでなく、もっと慰めを受けるようなものにしたい」と言ったのですが、主催者の人は、「慰めって一体何なのか、現にこうして苦しんでいる人がいる、私たちは生き方が問われているのだ」と言われたのでした。
 理解はしつつも、厳しいなと思いました。弱い人のためと言っているけれども、この信仰は強い人でないと受け入れることができないんではないだろうか。社会的に弱い立場にある人のことは考えるけれども、精神的にあるいは信仰的に弱い人のことはあまり考えていないのではないだろうか。と思いました。
 イエス様がなされた良きサマリヤ人のたとえ話がありますが、あのたとえを読むときに「自分は倒れている人を見過ごしにしたレビ人か祭司だろうか、それとも助けたサマリヤ人だろうか」と思っているうちは、イエス様と自分との間には何の関係もない、自分の救いはないと思うんです。でも、「あの倒れていた人こそが自分であり、助けてくれたサマリヤ人こそがイエス様なんだ」と思って読むならば、そこに救いがあります。イエス様に助けられた者として強められるんです。そして初めて「あなたも行って同じようにしなさい。」ということができるようになるんです。
 自分が救われていなければ、主に受け入れられていることを知らなければ、自分を愛することはできない。自分を愛せなければ、近くにいる両親や家族や友達を愛することはできない。近くにいる人を愛せなくて、どうして見知らぬ人を愛することができるだろうか。そんな反発した思いもありました。

 そんな風なことを通して、それぞれに影響を受けながら、信仰を形成して来た私ですけれども、この教会に来て初めて、ファンダメンタルな信仰に出会いました。天地創造をそのまままともに信じている人がいる。聖書を字義通り信じようとしている人がいる。これは驚きだったんです。聖書に書かれていることは真実ではあるけれども、必ずしも歴史的な事実とは言えないと教えられてきたからです。

 そして、ペンテコステ派的あるいはカリスマ的聖霊信仰です。聖霊というお方事態実感として理解できていませんでしたから、それは驚きでした。すぐに受け入れられるようなものではありませんでした。奇跡はある。病は癒される。サタンとの戦い。異言、預言、これまでの信仰の中に項目としてさえインプットされていなかったことが沢山ありました。
 ところがあるとき急激にその信仰は成長し、カリスマ派で聖霊のバプテスマと呼ばれる聖霊体験を受けたのでした。神さまはともにいて下さるだけでなく、私たちの内に宿ってくださって、私たちの力となって下さる方であることを知りました。イエス様は神の右に座しておられるいと高き方で権威と力のあるお方であり、かつ、聖霊として私たちの内に、ごく身近な存在としていて下さる方であることを知りました。
 でも、カリスマの信仰は行きすぎると、病が癒されないのは信仰が足りないからで、神に頼らないからだ、というような傲慢な信仰に陥ったり、苦難や試練の意味を過小評価してしまう危険性もあるので気をつける必要があると思います。

 そして、今、リベラルな信仰を持っておられる中村先生が牧師となって下さいました。何か螺旋階段を一周してきたような気がします。一体、私の信仰はこれからもどうなっていくのかと思います。

 私のこれまでの信仰の主な経歴をたどっただけでも、こんなにいろいろな信仰の影響を受けてきています。バプテストと呼ばれる人々の中でも、さまざまな信仰的傾向をもっておられる方々があります。だとすれば、キリスト教全体の中では、どれほどさまざまな傾向の信仰があるだろうかと思います。そして悲しいことに、あるところでは、お互いにレッテルを張り合って、批判しあっているんです。自分たちこそ正しい、あそこはおかしい、あそこは間違っていると裁き合っているんです。

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。」

 私たち人間は経験の生き物です。自分自身で経験し、理解したことを真実として受け入れます。あるいは、教育される生き物でもあり、経験に基づいて教えられ、理解したことを真実として受け入れます。でも、考えても見て下さい。神さまが備えられた大いなる真理のうち、一人の人間が経験できる事ってどれほどのことでしょうか。

 こんな話しを考えてみました。
 エデンの園には、たくさんのいろんな種類の木が生え、多くの種類の木ノ実や果物がなっていました。
 アダムとエバはそれぞれ別々の所に行って、心のままに果実を食べ、家に帰ってきました。アダムはミカンを食べて帰ってきてエバに言いました。「神さまってなんて素晴らしいお方なんだろう。あんなおいしい果物を作って下さったなんて。それは黄色くて皮を剥くといくつかに分かれた薄い袋に包まれた実が入っていて、甘酸っぱくて、とてもジューシーであんなにおいしい果物は初めてだ。」
 するとエバはリンゴを食べたらしくアダムに言いました。「神さまってなんて素晴らしいお方なんでしょう。あんなおいしい果物を作って下さったなんて。それは真っ赤でかじるとサクッといい歯触りで、中は白くて甘くて、とてもおいしかったわ。」
 そのとき、アダムとエバが喧嘩を始めたらどうでしょう。「オレの方がおいしかった。」「いいえ、私の方がおいしかったわ。」 そして、挙げ句の果てに、「おまえのは神さまが作られた果物の中で下等な果物だ。」「何を言うの。あなたのは神さまが作られた果物なんかじゃないわ。」
 神さまは涙を流して悲しまれると思います。
 彼らは自分の経験と理解の範囲内だけで判断しようとしました。そして、理解できないものを排除しようとしたのです。彼らはお互いの喜びを神さまに感謝すべきだったのです。そして、神さまのわざの大きさをたたえるべきだったのです。神さまは園の全ての木を作られたのです。すべて神さまの業なんです。アダムとエバが善悪を知る木を食べてエデンの園を追放されるまでに、二人は善悪を知る木と命の木を除く他の木の実のすべてを食べることができたと思いますでしょうか? 到底、無理だったと思います。彼らが経験できた木ノ実は全体のほんの一部だったと思います。
 それと同じように、私たちがこの世の生を終えるまでに経験し知ることのできる神の真理は、ほんの一部でしかないといわなければならないと思います。
 でも、一部だからと行って私たち自身に不十分だということではありません。私たちに必要な食べ物を神さまは備えていて下さるのです。一部ではあっても神の真理を知って、それに感動し、喜び、感謝し、神さまをほめたたえるならば、それで十分であり、それをこそ神さまは喜びとされるのではないだろうかと思います。
 他の人が経験する真理は、私とは違うかも知れない。でも、私たちが知ることのできる真理がほんの一部であることを知っていれば、傲慢にもさばいたり、早急に批判したりすることはありません。共に神さまがどれほど、広く深く大きいお方であるか、喜んでいくことができればと思うのです。
 遠藤周作さんは奇跡も癒しも全く行わなかったイエスを描きました。私は彼が描くその同伴者イエスに深く感動しました。奇跡も癒しも行わなくてもそれほど素晴らしいイエス様がさらに奇跡も癒しも行われたお方であったとしたなら、どれほど素晴らしいお方でしょうか。また、異椰子を行われる方が、試練を通して私たちを強め、生かして下さるお方であるならば、どれほど素晴らしいでしょうか。貧しさや差別の中にある人たちと共に歩まれるイエス様が、豊かではあっても不安と争いの中にある人たちをも助けて下さるお方であるならば、どれほど素晴らしいでしょうか。

 もう一度聖書に帰りますが、神さまは無制限にどの木からでも取って食べて良いとおっしゃっているわけではないことに、注意したいと思います。すなわち、「善悪を知る木から取って食べてはならない。」と条件がつけられているのです。
 今、私たちにどんな条件がつけられているでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと救いだと思います。これから離れてはならない。これを見失ってはならない。十字架こそ狭き門であり、また全ての土台だと思います。
 十字架と聖霊のバプテスマではありません。
 十字架と律法ではありません。
 十字架と行いではありません。
 救いは十字架を信じる信仰にあります。十字架にあらわされた神さまの無条件の愛、神さまの御心、それを見つめていかなければならないと思います。それから目をそらしてはいけないと思います。
 そして、その福音の土台にたちながら、神さまの豊かな豊かな真実を、赦される限り経験し、そのことを喜び感謝していきたいと思います。そして、主にある兄弟姉妹がその神さまの豊かさを分かち合い、喜びあっていけたらと思います。神の国はそのようにして広がっていくのではないかと思います。

1992年のある聖日礼拝信徒メッセージ
    綿谷 剛



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