「戸を叩き続ける神」             マタイによる福音書 4:1〜11

今日の聖書の個所は、荒野の誘惑と呼ばれている聖書の個所で、「人はパンのみにて生くるにあらず」という個所などは、あまりにも有名ですよね。中学生の頃、本当に感銘を受けて、福音書を読んだものでした。今日は、この個所から、「戸を叩き続ける神」という題で、神様がどれほどまでに私たちの応答を忍耐強く待ち続けておられるのか、神様は、ただ私たちが自発的に神の呼びかけに応えて生きていくことを望んでおられるということについて、お話したいと思っています。

  イエス様は、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった後、神の御子としての活動を始める前に、40日40夜、荒野で悪魔の誘惑に遭われました。これはイエス様のこれからの活動の方法を定めるための非常に重要な出来事であったように思います。この時のことを、マタイは単に「イエスは御霊によって荒野に導かれた」という言い方をしていますが、ルカは、「御霊にひきまわされて」というような言い方をしています。無理矢理引き回されたというニュアンスですね。これは、荒野で、イエス様がどれほど苦闘されたか、どれほど苦悶されたかということをあらわしているように思います。そして、イエス様のその40日間の壮絶な精神的な戦いをうまく簡潔に表しているのが、この荒野の誘惑の出来事であると思います。
 イエス様が何を悩まれ、何を苦しまれていたのか、それは、神の国をどのような方法で建て上げるかということであったと思うのです。

 まず、悪魔は第一に、「おまえが神の子なら石をパンに変えてみよ。」と試みます。ところで、ちょっと考えて見て下さい。石をパンに変えることの何が悪いのでしょうか。もし、石をパンに変えたら、イエス様御自身、空腹を満たすことができたでしょう。そして、石をパンに変えることくらい、神の御子イエス様にとって、いとも簡単なことであったはずです。私たちは、いつも石をパンに変えて下さるイエス様を望んでいます。神様、どうか私をこんな人に変えて下さい。神様、どうかこの人をこんな風に変えて下さい。神様、どうかこの苦しい状況をこんな風に変えて下さい。そんな風に望んでいます。石がパンに変わったら、多くの飢えた人々は助かるでしょう。多くの病人は癒されるでしょう。多くの貧困はなくなるでしょう。神の力がそんな風に力強く、すべての状況を変えてくれたらどんなにいいでしょうか。…しかし、イエス様は、「No.」とおっしゃいます。イエス様は思われたことでしょう。神の御子が持っている絶大な力を用いて、世界の状況を力ずくで変えたなら、どんなにたやすく神の国は実現するだろうか。しかし、そんな思いを、悪魔のささやきとして、拒否されたのです。

 次に、悪魔は、「高いところから、飛び降りてみよ、おまえが神の子なら天使が支えるだろう。」と試みます。神の御子イエス様にとって、高いところから飛び降りることなど、何の恐れもなかったことだろうと思います。しかし、イエス様はこれも拒否されます。イエス様がイスカリオテのユダに裏切られてゲツセマネの園で兵士たちに捕らえられたときに、ペテロは兵士の耳を剣で切り落としましたけれども、イエス様は、「剣を納めよ。私が父に願って、天の使いを12軍団以上も今つかわしていただくことができないとでも思っているのか。」とおっしゃり敵の耳を癒されました。イエス様が飛び降りた時、天使を支えに来させることくらい、何でもなかったことです。また、イエス様が十字架に掛かられたとき、人々は、「おまえが神の御子なら、自分を救って十字架から降りてこい」と言いました。私たちは、どうして、神の御子が、十字架に掛からなければならないのか、理解することは本当に難しいことです。どうして神の御子は、わざわざ罪深い人間になられたのか。神の性質から比べれば全く不自由な人間の肉体をとる必要があったのか。どうして、神の御子が人々に苦しめられ、十字架につけられ、むごたらしく殺されるような必要があったのか。理解に絶することです。十字架につけられる神の御子なんて見たくない。そんな弱々しい男が神の御子だなんて、そこにいたユダヤの人々は決して理解することはできなかったでしょう。私たちは、スーパーマンのように、どんな危険な状況にあっても、死ぬことはない、不死身であるような神様を望むのです。私たちは、私たちの救い主が、危険な場面に遭うと、すぐに死んでしまうような弱い者であって欲しくないのです。そんな弱々しい神様が自分たちを救いに導けるとは思わないのです。しかし、イエス様はそんな私たちの望みを悪魔のささやきとして拒否されました。

 最後に、悪魔は、この世のすべての国々の栄華を見せ、「自分を拝むなら、これをおまえにやる」と言います。イエス様は、神の国の到来を告げ、神の国を建て上げるためにこの世に来られたのです。神様の主権がすべての国々、人々の中で確立されることが目的であったのです。悪魔は、その目的を一瞬のうちにかなえてあげよう。と持ち掛けたのです。おそらく、イエス様にとって、そんなことは悪魔に頼まなくても、一瞬のうちに実現することができたはずです。大いなる力をもって、神の御子が君臨し、ご自分の栄光を人々の前に輝かせ、人々の心に強制的に入り込んで服従させ、神をあがめさせ、神の国を実現させることだってできたはずです。私たちは、どうしてこの世に悪がはびこるのか、と神様に文句を言います。どうして、神様はかつての日本の軍部の思い上がりを許し、太平洋戦争で多くの人々が犠牲になるままにしておかれたのですか。どうして、ヒトラーの残虐な行為を許し、多くのユダヤ人たちの命を無駄に落とさせることを許されたのか。どうして有り余る財産の中で裕福な生活を送る人と、貧しくて今日の食べ物にもありつけない者がいることを許されているのか。どうして健康な者があり、かたや生まれつき病気で苦しんでいる人がいるのか。神様が絶大な権力を用いて、強制的に処置をして下さったら良いのにと私たちは考えるのです。しかし、イエス様は、「No.」とおっしゃいます。
 神の御子、イエス様は、何によって神の国を建てようとしておられるのでしょうか。イエス様は、神の国をどのような国として建てようとしておられるのでしょうか。
 
 イエス様は、生涯を通して、いろいろな働きをなさいました。奇跡を行われたこともたびたびあります。しかし、人の心に強制的に入り込んで、事態を変えられたことは一度もありませんでした。「あなたは私が癒すことができることを信じるか」イエス様はそうお尋ねになり、人々の応答を待たれました。「信仰」それは、神様の呼びかけに応答していくことです。神様は私たちが自発的に応答していくことを求められています。決して、強制的に私たちを変えようとはなさいません。しかし、このことは全く驚くべきことだと思うのです。神様は無理矢理変えようと思えば世界を変えてしまうことくらい「へのかっぱ」です。それにも関わらず、私たちの信仰を、私たちの愛を待ち続けておられるのです。なんと遅々とした、なんと非効率的な神のご計画でしょうか。「神様は紳士だ」という言い方をされる方もおられますけれども、そんなきれいな言葉で言い表すことのできないような神様の思いだと思うのです。どれほど忍耐し、どれほど我慢されておられることでしょうか。ときどき、自分の子供に対して、どうしてこれくらいのことをできないのだろうと思っていらいらすることがあります。子供だけじゃなくって、自分の夫に対して、妻に対して、どうしてこうであってくれないのかといらいらすることがおありでしょう? パウロは、?コリント13章で、「愛は寛容であり、…」と言っていますけれども、新共同訳聖書は「愛は忍耐強い」と訳しています。それでも、それでも、神は私たちの応答を待ち続けておられるのです。神の愛は、私たちの自発的な愛の応答を求めています。神の国は、神様が大きな力をもって、私たちの心を一瞬のうちに変えて下さることによって建て上げられるのではなく、私たちの自発的な愛によってのみ建て上げられていくのです。それは、神の国は愛の国だからです。愛の国は、愛によってしか成り立たないのです。私たちが、自発的に神の愛に応えていくことによってしか、成立しないのです。

 先週はイースターでしたけれども、イエス様がご復活されたのを目撃したのは、信じた人だけでした。復活後、イエス様が現れたのは、弟子たちの前だけでした。どうして、鳴り物入りで現れて、世界の人々を圧倒しなかったのでしょうか。そうしたら、ピラトも、ヘロデも、大祭司も、サンヒドリンの議員たちも、律法学者も、イエス様を十字架につけよと叫んだ大勢の群集も、イエス様が神であることを認めたかもしれません。しかし、イエス様はその方法を選ばれませんでした。あくまでひそやかに、復活の姿を身近な者だけに現されたのです。神様は、私たちが、自ら神様の愛に気づくこと、そして、自由意志によって、その愛に応えて生きること。そのことを求めておられます。神様の愛に応えて生きるとは、神を愛し、人を愛しつづけるということ。神様が私たちを忍耐強く待ち続けておられるように、見返りを期待しないで愛し続けるということ。神様はその延長線上に、神の国を建てようとしておられるのだと思います。私たち人間が、神様のように見返りのない愛に生きることは、本当に難しい不可能のようなことかもしれません。神様から私たちを見て、本当に絶望的なほど、人間は罪深いものであると思っていらっしゃると思います。しかし、それでもなお、神様は私たちの心の扉を叩き続け、忍耐強く、我慢強く、私たちが心の扉を開き、神様の愛に応えるのを待ち続けておられるのだと思います。その神様の私たちに対する強い愛の思いに気づく時に、聖霊様が私たちに働きかけて下さいます。そして私たちは変えられていくことができるのです。しかし、その神様の呼びかけに応えていくのは私たち自身なのです。ほんの小さな一歩からかも知れませんけれども、神様にお応えし、神様に向かって歩み出すことが求められているのではないでしょうか。

 イエス様は、終末の最後の日に、私たちを羊と山羊を分けるように、右と左に分けると言われました。その時に右にいる人々にこう言われます。「私の父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受け継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」そして左の人にはこう言われます。「これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである。」そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。

 この御言葉は、私にとってあまりにも難しく、厳しい御言葉です。私自身、愛の本当にない、冷たい罪深い者です。そのことを思うと絶望的にさえなります。だから、信じて告白してバプテスマを受けたら天国に行けるんじゃなかったのってつぶやいてしまいたくなります。しかし、神様は、神の国はこのような国だと言っておられるのだと思います。自発的に愛する者の国、愛し合う者の国、助け合う者の国、そのような国を建てようとなさっておられるのだと思います。そのために、イエス様が十字架にお掛かりになり、私たちの罪を赦されたのではないでしょうか。そして今も、神様は日々、忍耐強く、私たちの心の戸を叩き続けておられます。私たちが応えるのを待ち続けておられます。
 わたしたちは、どのようにお応えすれば良いでしょうか。

1998.4.19
綿谷 剛