そのままでいいよ

Uコリント12:6−10


今日は、いつもと違って、証を中心にお話をしたいと思っています。

よく則子(妻)と話すんですけれど、一輝(四歳の息子)を見ていて、どうしてこの子はこんなに優しいんだろうと思うことがときどきあります。
小さい時から、私がいないときに、則子と一輝がお菓子を食べたりすると、必ず、「おとうちゃんにも残しておこう」って言って、一つ残しておいてくれたりします。また、私が夜遅く仕事から帰ってきたとき、則子が一輝に絵本を読みながら寝かせようとしていると、一輝が、「おかあちゃん、おとうちゃんのご飯を早く作ってあげて」なんて言ってくれるんです。
則子が一輝にいらいらしてつい怒鳴ったり叩いたりしてしまった後で、則子が「おかあちゃん、さっき怒ってしまってごめんな」って言うと、「ううん、いいよ。おかあちゃんが怒りんぼうでも、おかあちゃんのこと大好きなんだもん。」なんて言うんです。
こんなこと言われると涙が出てきますよ。親ばかなだけかもしれませんけれど、本当に、誰に似たんだろうって思います。

でも、少しの心配もあります。この子は、この優しさをずっと持ち続けていけるだろうか、世の荒波にもまれる中で、もっと強くなることを要求されたときに、この優しさを捨ててしまうようなことがないだろうか。
あるとき、一輝が「かずくんは、弱いんよ」って言ったんです。ビックリしました。一輝がどういうつもりでそういったんだか、良く理解してやることができなかったんですけれど、この歳で、自分が弱いっていうことを認識しているって、すごいことだと思いませんか? かなり客観的に自分のことを見ているんだなあって思いましたし、弱いということを、そんなに否定的な言葉としては、まだ受け取っていないということに、とてもいとおしくて、抱きしめたくなりました。
でも、世の中は弱いということを許してはくれません。親である私たちもきっと尻を叩いて、「弱虫はだめだ、強くなりなさい」っていうメッセージを知らず知らずのうちに送り続けてしまっているのではないかと、恐れを感じています。

私は、自分の弱さについて、とても、劣等感をもっていました。一輝にも、「おとうちゃんは子供の頃、とても泣き虫やったんよ」って話をすることがあるんですけれど、本当に些細なことで傷ついて、泣いてばかりいました。親には良く怒られました。怒られては泣いていました。友達と遊んでいて、その友達がいたずらをして、近所のおばさんにどなられた時も、友達がどなられたのにもかかわらず、自分が泣き出して家に帰るような子でした。
だけど、少しの優しさも持っていたように思います。自分の事をそんな風に言うのは恥ずかしいことなんですけれど、あえて話をしますが、若い頃、教会で誰かが買ってきてくれたケーキをみんなで食べたときに、いろいろ種類があったのでジャンケンで勝った人から順番に好きなケーキを取って食べて良いっていうことになったんです。そのときに、私はジャンケンで一番になっても、人が一番避けるケーキを取るような子でした。教会で自転車の乗り方を教えてほしいと女の子に頼まれて、何の下心もなく一生懸命教えてあげたことがありました。牧師婦人が、「つうちゃんってどうしてそんなに優しいの」って驚いておられたのを良く覚えています。ところが、その女の子が私に好意を持っていることがわかって、私はそんなつもりは全くなかったから、とまどいました。優しくするということに疑問を持ち出したのはそのときが初めてだったかも知れません。
それから、好きな人ができて、少しの間一緒にいることができたんですけれど、本当に恋をするってこんなことかと自分でも驚くくらい、その人のために尽くしたんですね。でも、そんな恋もうまくいかなくなって、まあ、いわゆるふられたわけなんですけれど、あるとき、その好きだった人から、「本当の優しさっていうのは、強さに裏うちされた優しさだ」って言われたんです。これは、自分にとっては、本当にショックでした。一番痛いところをぐさっと突き刺されたって思いでした。
それからは、私は自分の弱さを克服して、強くなろうとしました。私の中途半端な優しさなんか消してしまおう。そう思いました。自分自身が嫌いでした。自分自身を変えてしまいたいと必死でした。でも、強くはなれなかった。
今でも、自分は本当に弱虫で、ちょっと何かあるとたじろいでしまいますし、大切なことでも少しやっかいな問題だとすぐに後回しにしてしまったり、その場を逃げ出してしまうような弱さを持っています。本当に決断力、判断力に乏しい弱さをもっています。思いやりがないっていつも則子に言われます。どうしてだろうと思います。しかも、少しはあったはずの優しさまで、本当になくなってしまったようです。

一輝は則子に「ううん、いいよ。おかあちゃんが怒りんぼうでも、おかあちゃんのこと大好きなんだもん。」って言いましたが、この歳にして、一輝は私なんかよりもずっと、神様の心が分かっている。神様の福音が分かっていると思いました。
神様はこんな弱い私に、「そのままでいいよ」って言って下さいます。神様は、すぐに罪を犯してしまうような私に、神様のみこころを行うことに本当に鈍くて、自分からは何もできないような私に、「それでも、私はおまえを愛している」って言って下さいます。教会では何でもできて、信仰深そうな顔をしておきながら、普段は、神様のことなんか忘れてしまって、祈ることも御言葉に触れることも滅多にしないような私に、そして、人のことはもちろん、則子や一輝のこともちゃんと思いやってあげることができないような私に、それでも、「私はおまえを愛している」って言って下さいます。

話は少しばかりかわるのですけれども、インターネットで色々な方とお話をしていると、一つは福山教会のホームページを背負っているという思いもあるからだと思いますけれども、ついつい、模範解答をしてしまうんですね。今は教会から離れておられる方とお話をするんですけれども、本当に自由に神様のことを考え、聖書を読み、わからないことはわからないと素直に言い、おかしいと思うところは何のためらいもなくおかしいとおっしゃるんですね。ところが、他の牧師さんたちも同じようなんですけれども、私は、自分の語ることに間違いがあってはならない、(それは、教会を背負っているからなんですけれども、)正しいことだけを言わなければならないって、すごく気負っている部分があることに気づかされるときがあります。そんなときって、正直ではないんですよね。自分の弱さを見せられない、自分が強くなければならない、何でも知っていなければならない、そんな風にすごく気負ってしまうときがあるんです。だけど、そんな自分は真実じゃないから、最終的には取り繕えなくなって、どうしょうもなくなってしまいます。クリスチャンの方で、人に神様のことを伝えるのにそんな経験をなさったことがあ
る方が多いのではないでしょうか。でも、そんな風にしても真実は伝わらない、自分の弱さのところに神様が働いて下さっているということでしか、私たちは証できないんじゃないかと思わされます。

さて、今日の聖書の個所ですが、パウロの体験はとてもおもしろいと思うのですけれども、パウロは不思議な霊的な体験をするんです。そして、そのことを誇ろうとします。でも、自分が何か偉いもの、神様から特別何か与えられたもの、特別な存在だと思ったときに、神様は、トゲを与えられました。それはパウロの肉体の病気だったと言われていますが、パウロにとっては、本当に取り除いてしまいたい弱みだったんです。しかし主はパウロに「わたしの恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである。」と語られます。
私たちは自分が何か偉いもの、神様から特別何か与えられたものだと思ったとき、また、私たちが自分自身は強いと思ったとき、神様と私たちの関係は遠いものとなってしまいます。神様の恵みはどこかに消えて見えなくなってしまいます。しかし、自分の中にある弱さ、醜さ、罪深さを思うとき、神様の「そのままのおまえを愛しているよ」という声が聞こえてきます。神様の恵みが私たちの中に注がれるのです。

もし、私たちが、何か高慢になっていることがあったとしたら、その時には、もう一度自分の弱さに立ち戻りましょう。もし、私たちが、自分の弱さに打ちのめされそうになっていたとしたら、「いいえ、そのままのおまえを愛しているよ」という神様の御声を聴きましょう。そして、もう一度、その神様の恵みと愛の中から始め直そうではありませんか。

先日、道を歩きながら、鼻歌を歌っていたんですけれど、ふとメロディーと詞が浮かんで来ました。何度も口ずさみながら、涙があふれて止まりませんでした。聖霊様が触れて下さった瞬間だと思いました。讃美したいと思います。

  「そのままでいいよ
強くなりたかった。弱さ捨てたかった。
そして優しささえも、置き忘れてきた。
ふっと、気が付けば自分の中に何もなかった。
そのままでいいよ。そのままでいいよ。
優しく主は語りかける。
そのままでいいよ。そのままでいいよ。
主に目を向けるなら、主の御手は私の弱さに働く。

       1998/6/14
       主日礼拝
       綿谷 剛





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