聖霊の冒涜

マルコ3:22−30


 おはようございます。今日は、マルコによる福音書の中に、「聖霊を冒涜する罪はゆるされない」と書かれている個所について考えてみたいと思っています。

 先ほど読んでいただいた最後のところ、28節〜29節には「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と書かれていますが、これ、みなさん、意味わかりますか?どんな罪も冒涜の言葉も赦されると言っておきながら、聖霊を冒涜するのは赦されないと言うのです。マタイによる福音書では、「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、赦されない。」と言っています。
 神を冒涜するどんな言葉も、人の子つまりイエス様の悪口を言うものも赦されるというのに、どうして、聖霊を冒涜する者は赦されないのでしょうか?神を冒涜するのと、イエス様を冒涜するのと、聖霊を冒涜するのと何がどう違うのでしょうか?

 さて、この個所は、ベルゼブル論争と言われる個所に続いてイエス様が言われた言葉として書かれています。エルサレムから下ってきた律法学者たちが、イエス様の悪霊払いの業、つまり、癒しの働きについて、「あいつは、ベルゼブルに憑かれている」「あれは、神様の力なんかではなく、悪霊の頭すなわちベルゼブルの力によって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言うんです。それに対して、イエス様が反論をされるわけです。
 律法学者たちはどうして、イエス様の働きを「悪霊の仕業だ」とののしったのでしょうか。いえ、それは、彼らにとって当然といえば当然のことだったのかもしれません。
 今日の個所の少し前を見てみますと、21節「すると彼の身内の者たちが、彼のことを聞いて、彼を取り押さえるためにやって来た。なぜなら、人々は彼の気が狂ったと言っていたからである。」と書いてあります。
 イエス様の家族たちでさえ、イエス様は気が狂ったと思ったのです。それほど、イエス様の働きは、当時の常識からすれば、理解できないこと、とても普通じゃないことだったのです。

 では、何が理解できないことだったのでしょうか。
 この出来事までのイエス様の働きを、マルコによる福音書に沿って、大まかに振り返ってみたいと思うのですけれども、まず、はじめに、1章16節で、ガリラヤ湖畔でペテ<ロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブという無学の漁師たちを弟子にしました。このことは全く驚くべきことだったと思うのです。律法学者にとっては、ユダヤ教の聖職者、指導者たる者が、世俗にどっぷりとつかったの無学な労働者を1番目の弟子として選ぶなどということは、ありえなかったことだと思います。
 そして、宣教とともに、次々に病人たちを癒す働きを始められます。穢れた霊に憑かれた人、らい病人、中風患者など、それまでは、彼らは本人のせいなのか親のせいなのかわからないけれども、罪のために悪霊に憑かれ、病気になり、罪人として世間から疎ましがられ、社会から排除されていた人々でした。まず、イエス様はそんな人々のところへ行き、癒されたのです。そのことも律法学者たちには全く理解できないことでした。
 それから、取税人であるアルパヨの子レビを弟子とし、取税人たちや多くの罪人たちと食事を共にされました。罪人と関わろうとはしなかった律法学者たちには、このことも全く理解できないことでした。
 それから、イエス様は、断食の掟を破り、安息日の掟を破り、そのような人を縛り付ける律法よりも、人の命を大切にすることの方がずっと大事だと語られました。

 これらのイエス様の働きは、律法学者たちにとって、全く理解できないことであったばかりでなく、非常に腹立たしいものであり、悪魔の仕業であると理解せざるを得なかったことでしょう。

 私は小学生だったのか中学生だったのか良く覚えていないんですけれども、大阪の長居公園へ友達と遊びに行った時のことなんですけれども、一般に開放されたジョギングコースがあったんです。そこで走ろうということになったんですけれども、大学生の多分陸上部の人たちが長距離の練習をしていたんですね。それで、私たちも調子に乗りまして、そのお兄さん達に付いて走ろうということになりまして、友達と一緒に走り出したんです。みなさんもよくご存知の通り、走れば必ずビリという運動神経ゼロの私のことです。結論は見えてますよね。といっても、長距離は多少はましだったんですけれども、何しろ相手は大学生の陸上部ですからね。結論は見えてます。走り出した直後からぐんぐんと引き離されて、あっという間に見えなくなってしまったんです。そこで、私たちはふと、そのコースがいかに長いコースであるかということに気づきまして、とても走れないと思ったら、ちょうど、コースの真ん中にある森を突き抜けるバイパスの道があったんです。「ここ通ろ、ここ通ろ」ということになりまして、そのバイパスを走り抜けたんです。そうしたら、コースに戻った時には、かの大学生たちのすぐ後ろでして、あっと言う間にゴールしてしまったんです。大学生たちはそんなこと知りませんから驚いていましたね。もちろん、「バイパスを通った」ことなんて言いませんでしたよ。

 イエス様のなさったことというのは、ちょうどそれに似ているような気がします。きっと、もっと、ひどいですね。たとえて言うなら、一生懸命山道崖道を歩き続けて、走り続けてやっとゴールにたどり着いたと思ったら、初めから勝負にしていなかったような、体の弱い人やあるいは出場資格もないような人が、表彰台の上で優勝旗を持って立っていたというのに似ているような気がします。みなさんだったらどうしますか? 腹が立ちますよね? こんなに一生懸命やってきたことが何にも報いられないんですから、「そんなのってあり?」って思いますよね。そう、ルール違反ですよね。律法学者達にとっては、イエス様のなさったことは、全くのルール違反だったんです。だから、「悪霊の頭、ベルゼブル」だって言ったんです。

 しかし、イエス様がなさろうとしたこと、イエス様が伝えようとされた福音は、とりもなおさず、ルール違反の福音なんです。出場資格のない人が、優勝旗を握ることができることを可能にされたんです。それが「福音」なんです。
 イエス様の宣教の第一声は、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」という言葉でした。
 「神の国は近づいた」なんです。「神の国に近づきなさい」ではないんです。まず、「神の国は近づいた」という宣言なんです。神様から近づいてきて下さったんです。この「近づいた」という言葉は、「ほんの目と鼻の先まで近づいた」ということなんです。誰の目と鼻の先まで近づいたんでしょうか? 一生懸命道を走り続けてきた人のところでしょうか? そうではなく、今イエス様の前に立ち、イエス様の声を聞いているすべての人の目と鼻の先まで近づいたということなんです。だから、悔い改めて、すなわち、神様の方に目を向け直して、「神様があなたのことを愛しているんだ」「出場資格のないようなあなたも、神様の賞をいただけるんだ」という「福音」を受け入れ、神様に信頼しなさい。という神様からの愛のメッセージなんです。

 もしも私たちが、「私たちはすでに救われている。でも、まさかあんな人が救われるはずがない」と心に思うなら、イエス様の「福音」は私たちの側にはありません。たとえば、近所にすごくいやな意地悪じいさんか意地悪おばあさんがいて、人の陰口ばかりを言って、自分についてあらぬ悪評が近所中に広まったりしたら、許せませんよね。しかし、それでも、「あんなやつが、イエス様の救いにあずかるはずがない」って思ってたら、その人がなくなって、かわいそうにと思いながらも、「ああほっとした」なんて思ってたら、天国に行ったらその人が先に行ってて、迎えてくれたなんてことがあるかも知れません。もしかして、反対に自分は天国には入れなかったなんてことがあったりして。。。

 でも、安心して下さい。もし、私たちが、本当に自分を見つめるなら、イエス様のルール違反の「福音」が実は、とりもなおさず、私のためだったということが分かるんです。出場資格のないのは「私」なんです。どうやったって、神様に近づくことなんてできないのは、「私」なんです。それに気づいたときに、イエス様のルール違反が私にとって「福音」になるんです。そのために、イエス様は「福音」をたずさえて来て下さったんです。

 さて、聖霊の冒涜の話に戻しましょう。
  罪を犯すことも、神を冒涜することも、イエス様を悪く言うことも赦されます。律法学者達は、罪人や先天性の患者、伝染病患者や、また、神の掟を守ることのできないような経済的余裕のない庶民たちを、出場失格者として切り捨てました。しかし、イエス様は、「どんな人であっても神の愛の中にある」と宣言されました。 イエス様が多くの悪霊に憑かれた人々や病人を癒されましたが、それは、神の愛がどんな人にも及んでいるということを示すためでした。
 ところが、律法学者たちは、そのルール違反を責め立てたのです。
 しかし、イエス様はおっしゃいます。「罪を犯すことも神への冒涜も赦される。それが神様のみこころなんだ。でも、「神様が赦される」ということ、「神様が愛している」ということ、その働きを否定するなら、もはや、その人は赦されるすべがない。愛されるすべがないのだ。」
 律法学者達は、赦される側に身を置くことができませんでした。そのことをイエス様は深く哀れまれたと思います。「あなたがたも、神様から赦される対象なんだ。しかし、何の代価もなしに、神様が赦されること、愛されるということを否定して、悪魔の仕業だなどと言ってしまったら、もはやあなたがたは、差し出された「救い」を受け取ることができないのだ」イエス様はそうおっしゃっているように思います。

 さて、私たちにも「神様の愛」は目と鼻の先まで来ています。もし、それを受けとっていないなら、それは私たちが手を伸ばさないからです。握った手のひらを開いて差し出さないからです。こんな私を神様が愛して下さるはずがないと思うことは、聖霊を冒涜することになります。あんなやつには神様の愛が届くはずがないがないと思うことも、聖霊を冒涜することになります。
 「神様の愛」は届いています。私たち一人一人の目の前に。
 ぜひ、私たちはその愛を受け取りながら、また、分かち合いながら歩んでいきたいと思います。

       1998/7/5
       主日礼拝
       綿谷 剛





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