怒りと和解

マタイ5:21−26


 今日は、怒りについて、御言葉から学びたいと思っています。
 以前、教会学校に来ていたすごくおてんばな女の子がいたんですけれども、口が悪いんですよね。すぐに気に入らないと「バカ」「バカ」って言うんですよ。たまりかねまして、今日の聖書の個所を開いて、「バカ」っていうと、地獄の火に投げ込まれるんよ。って言いますと、すごく神妙になっていました。やっぱり子供なんですよねえ。
 しかし、人に腹を立てたことのない人なんて、いるんですかねえ。私も大抵のことでは腹を立てない方なんですけれども、このあいだやってしまいました。もう、お聞きになっておられる方も多いかもしれませんが、夫婦喧嘩をしておりまして、やってしまったんです。理由はまあ言わないことにしておきましょう。普段の場合だったら、妻が怒っていても、私の方は、ふくれていても割と冷静でいるんですが、堪忍袋の緒が切れたと言いますか、もう、我慢ができない位、カーッとなりまして、思いっきり殴ってしまったんです。奥の部屋から玄関のところまでふっとびましたから、それは思いっきりでした。大きなたんこぶを作ってしまいました。

 
 そんな風に、怒りというのは、小さなきっかけからすぐに私たちの心を乱してしまうんですよねえ。イエス様は、「兄弟に対して怒るものは誰でも裁きを受けねばならない。」とおっしゃいました。「殺す者は裁きを受けねばならない」と言われているが、しかし、「兄弟に対して怒るものは誰でも裁きを受けねばならない。」とおっしゃってのですから、怒りと殺人は同罪である。とおっしゃっておられるんです。わたしたちのうちで、この厳しいイエス様の裁きに耐えることができるのものが果たしているでしょうか。

 まず、イエス様がおっしゃっているのは、「ばか」とか「愚か者」と言うなということです。昨日、5歳の息子の一輝に「あほ」ってどういう意味って聞きますと、「あほってねえ、こけたときに言う言葉なんよ」って言ったんです。なるほどね。その程度の言葉なら、まあかわいいですよねえ。火の地獄に投げ入れられるとは思いませんよねえ。イエスさまがおっしゃっているのは、相手の人の人格を否定するような言葉、その人の存在、生きていることをも否定するような言葉、ののしりじゃないかと思うんです。「バカ」とか「死ね」とか叫ぶことはまさにそうですよねえ。
 このイエス様の言葉を、私なりに解釈して、言い換えてみますと、

誰に対してでも、恨み、敵対心を持ち、こんなやつはいない方が良いと怒りをもつことは、殺人と同罪であり、裁判で罰せられなければならない程の重い罪なのです。
また、人を軽蔑し侮辱する者は、殺人と同罪であり、例えば最高議会に引き連れられ処罰されるほどの重い罪なのです。
また、人の人格を全く否定してしまうようなことを言う者は、殺人と同罪であり、例えば火の地獄に入れられなければならないほどの重い罪なのです。

 次に、イエス様は興味深いことをおっしゃいます。
 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
 イエス様は、礼拝を献げることよりも、人と和解することの方が先だとおっしゃるのです。これを見ますと、パウロがTコリント13:13で「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛だ。しかし、最も大いなるものは愛だ」って書いているのを思いだします。信仰より愛の方が大切なんですよ。人と仲直りができなくて、どうして、神様と仲直りができるのかっておっしゃっているようです。私たちは、礼拝に出たら、何か清められるかもしれない。礼拝に出て、いいお話を聞いたら、苦々しい思いが消えるかもしれない。って思います。確かにそういう面はあると思います。でももし、礼拝することで、何か責任を果たしたかのような思いになるとしたら、それは錯覚なんでしょうね。
 私がこの個所で面白いと思いますのは、怒っているのが自分ではなくて、相手だっていうことです。つまり、ここでは、怒ったまま礼拝に出るなと言っているのではなくて、人を怒らせたまま礼拝に出るなと言っているんです。私は怒ることはあんまりないんですが、怒らせることは多々あるようですから、これは私にとっても厳しい教えです。怒ることも悪いが、怒らせることも同様に悪いってことでしょうか。自分に身に覚えのない罪で相手が怒っていると感じたり、自分の方が絶対に悪くないのに相手が怒っているっていう場合もあるかも知れないのですが、「火のないところに煙は立たず」ではなく、「非のないところに怒りは立たず」で、大抵の場合、何か自分にも過ちがあるはずなんですよね。そう認識することが仲直りの秘訣なんじゃないかなと思います。

 次にイエス様は、あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。とおっしゃいます。
 「あなたを訴える者と一緒に道を行く」というのは、相手の人が、自分を借金の返済不履行のために裁判にひきずって行くという意味です。そして、「最後の1コドラントを返すまで獄から出られない。」と言います。1コドラントというのは、1デナリの64分の1ですから、まあ120円くらいでしょうけど、当時の感覚からすれば、多分、最後の1円を返すまでという意味でしょう。
 要するに、借金が重なって、返せなくなって、相手を怒らしてしまった時には、裁判という事態になるまえに、和解をしなさいっていうことです。
 ところで、借金が返せなくって、その貸してくれた友達がはたして赦してくれるんでしょうか。和解しなさい。仲直りしなさいったって、自分をそこまで赦してくれるんでしょうか。

 私は、これは暗にイエス様の赦しの福音を指し示しているんじゃないだろうかと思わされます。私たちは、神様に対して、毎日毎日罪を犯し、顔を向けることができないほどなんです。それでも、神様は私たちを愛し、赦し、生かしていて下さるんです。そのためにイエス様は十字架にかかり、私たちに救いの道を備えて下さったんです。
 私自身こそ、ばか者であり、愚か者であり、最後の1コドラント支払い終えるまでは、赦されないようなそんな私であるにも関わらず、神様は愛し、受け入れ、赦し、生かして下さるんですよね。
 そんな私たちが、どうして人の罪を赦さないのか。赦すことができなくて、心に怒りをもってしまうのか。私たちはお互いに、神様から赦されなければ生きてはいけない存在なんだ、だから、神様の前に自分だけが正しいなんて思えるはずがないはずなんだ。そういうことではないでしょうか。
 私たちは、怒るなって言われても、どうしようもないような弱い者です。こんな私たちをも赦し生かして下さるお方の御前に立った時に、私たちの本当の弱さを知らされ、怒りが解決していただけるのではないでしょうか。

 私たちの夫婦喧嘩の後日談ですが、私がインターネットで、実は妻を殴ってしまったんだと書いていますと、あるクリスチャンの方が、仲直りしてくださいと、歌の歌詞を作って送ってくれたんです。それで、私が曲をつけて、「共に歩いていこう」という素晴らしい歌が出来上がりました。この歌はまた、クリスマスの時にでもお聞かせしようかと思っていますけれども、その歌のおかげで、また仲良くやっていこうと思わされました。

 それでもまた、怒り、怒らせながら歩んでいくことになるかも知れませんけれど、そんな時は、私自身こそ、主の十字架によって、神の怒りから赦されている者なんだっていうことを思い出して、また、歩いていきたいなと思っています。
       1998/9/20
       主日礼拝
       綿谷 剛





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