命の代価 (1999.4.10)
また、あなたたちの命である血が流された場合、なにやら、恐ろしげな神の言葉ですね。
わたしは賠償を要求する。
人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
人の血を流す者は
人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。
(創世記9:5〜6)
私は小学生6年生の夏休みの工作に、飛行機のバルサ模型を作って持っていったことがあります。
ところが、教室で友達が投げ合いをしていたドッジボールが模型に当たり、主翼が大破してしまったのです。
私は悲しくて悲しくて大声で泣いたのを覚えています。
その模型を作るのにどれほど神経を使い、時間をかけ、一生懸命に作ったでしょう。
それが一瞬のうちに壊れてしまったことが、悔しくて悲しくて、しかたがありませんでした。
「人は神にかたどって造られたからだ」
神様は、私たち人間をどのような思いでお造りになったのでしょう。
「神にかたどって」造られたと言うのですら、そんなに手抜きでいい加減な気持ちで造られたはずがありません。
精密細工をするよりもっともっと神経を遣い、心をこめ、腕を振るい、丁寧に時間をかけて造られたに違いないのです。
どうしてその命が簡単に人の手によって軽く扱われ、憎まれ、失われることに黙っていられるでしょうか。
人の命が失われるときの神様の悲痛の叫びは、どれほど大きいことでしょうか。
神様は、私たち一人一人を、それほどまでに手をかけて造って下さいました。
そんな私たちの命を粗末にしていいものでしょうか。
神様の愛は、私たちがこの世に生まれる前から、私たちに限りなく注がれているのです。
綿谷 剛