わたさんの信仰告白
私は、次のことを信じます。 |
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「聖書」 | |
聖書は神の霊感によって書かれた啓示の書であり、唯一の信仰の規範です。 一面で聖書は神がこの世に御心を示すために聖霊によって著者に働きかけて書かれたものですが、一面では、様々な歴史の中で著者が神と出会い、神と向かい合い、神との交わりの中で聖霊に導かれつつ、信仰によって書かれたものです。聖書はキリストとその救いを指し示す啓示の書であり、聖書は神の言葉です。信仰をもってこれを読むときに聖霊は語りかけて下さり、神のみ旨を示して下さいます。この聖書に聞き従います。 |
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「神」 | |
私は父、子、聖霊の三位一体の神を信じ、私の主と告白します。 父なる神は天地万物の創造者であり、統治者であり、全知全能のお方です。すべてのものを目的をもって創造し、目的に従って生かされます。 |
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「イエス・キリスト」 | |
私はイエス・キリストを私の救い主と信じます。 イエス・キリストは、私たちのために、天より降り、聖霊によって処女マリヤより生まれ、人間として、すべての苦しみの中を神に従順に生きられました。 イエス・キリストは、人として生きられた生涯において、神の国と愛に満ちた神の義すなわち福音をのべ伝え、人間を縛り付けているすべての悪しきものからの解放の道を示し、父なる神の権威と聖霊の力をもって、病を癒し、悪霊を追い出し、すべての人間の弱さに対して助けとなって下さり、また弱い者、虐げられた者とともに生き、神の愛を完全に現して下さいました。 イエス・キリストは、人間の罪を完全に赦すために、すべての罪を一身に背負って身代わりとなって十字架につけられ死なれました。黄泉に下り、3日目に死から復活され、信じる者に罪の赦しと永遠の命を与え、復活の希望となってくださいました。 弟子たちに復活されたご自身をあらわされ宣教の命令をされた後、天に昇られ、今も生きて父なる神の右に座し、王の王、主の主として世界を統治しておられます。 そして、今もイエス・キリストは、聖霊の働きを通して、信じる者と共に歩んで下さり、励まし、力となって下さり、癒し、解放して下さいます。 |
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「聖霊」 | |
私は聖霊を信じます。聖霊は神の霊であり、キリストの霊であり、人格をもった神です。 聖霊はキリストの昇天後、キリストが約束された通りにペンテコステの日に教会と信じる者に下されました。そして、宣教の力を与え、また、キリストの福音の真理を明らかにしてくださいました。 聖霊の働きかけによって人は信仰を与えられ、キリストのうちに新しい命を生きる者とされます。主を信じた時、聖霊は信じる者の内に住んで下さいます。聖霊は信じる者に与えられる永遠の命の保証です。 信じる者は聖霊によってそれぞれに賜物を与えられ、聖霊の実を結びます。聖霊は不信仰な人間を助け、慰め、罪を清め、日々新たにし、満たし、信じる者の内に直接働きかけて主の栄光を表す器として用いて下さいます。そして、聖霊は信じる者をキリストと同じ品性に造り変えて下さいます。聖霊は聖書を通じ、又、人の思いや出来事を通し、又、信じる者の祈りに応じて語りかけ、働きかけ、真理を表して下さいま す。 |
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「人間」 | |
人間は、神の似姿として自由意志をもつ者として創造されました。人間は神の愛の中で神との交わりの中に生きる者として造られましたが、与えられた自由を乱用して罪を犯し、自ら、神と直接交わることのできないものとなり、悪魔の支配下に堕ちました。そして、人間は生まれながらにして罪を持つ者となりました。人間はその罪深さと弱さのゆえに、自らの行いや努力によってはけっして救われることはありません。 しかし、神は、深いあわれみによりイエス・キリストの十字架の購いを通して、罪を完全に赦され、救われた者として生きる道を備えて下さいました。自らの罪を悔い改め、イエス・キリストを主と信じ、その福音を受け入れ信じる者は、行いによらず、ただ信仰によって、神の恵みによって無償で神の子とされ、永遠の命を与えられ、聖霊によって神との交わりの中に生きる者とされます。 |
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「教会」 | |
神の国の国民で構成されるただひとつの公同の教会を信じます。 教会は神に呼び集められた者の集まりであって、神の国の到来を告げ、その実現を目指すキリストの身体です。教会に集う信徒一人一人は、キリストの身体の各部分であって、神からそれぞれに役割を与えられており、互いに愛し合い、仕え合い、認め合い、キリストの身体を建て上げるために協力します。 教会は福音の宣教の使命を神から委ねられています。信徒一人一人は御心に従い、聖霊によってそれぞれに賜物を与えられ、召命を与えられ、役割を委ねられていますが、それぞれの間に身分的な上下はないものと信じます。また、各個教会は互いに支配関係を持たず、独立していることが望ましいと考えますが、同じひとつのキリストの身体としてお互いの違いを認めつつ、互いに協力することを惜しむべきでないと考えます。 教会はこの世に迎合することなく、かつ、世のただ中にあって、その重荷を担うべきであると考えます。 |
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「礼典」 | |
私は、バプテスマと主の晩餐式の2つの礼典を守ります。 バプテスマは、キリストを救い主と信じ、告白したときに、キリストと共に死に、キリストと共に新しく生きる者とされたことを表す儀式として行われ、形としては浸礼が最もふさわしいと考えます。 主の晩餐は、主の十字架の死を記念し、その死によってのみ、人間は神の命に生きるものとされることを継続的に確認していく儀式です。また、主の身体と血を象徴するものとしてパンと葡萄の杯を分かち合うことによって信徒の交わりが神ご自身に結ばれたものであることを覚えます。 |
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「礼拝」 | |
礼拝は信じる者にとって最も大切なものです。礼拝は讃美と祈りを献げ、私たちが主のものであることを確認し、み言葉を受け、この世では生活の力とします。週に一度、教会で兄弟姉妹とともに礼拝を献げることを信仰生活の基本とします。 |
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「教会と政治」 | |
政治的権力や制度は神の支配のもとにあって、社会に秩序を与え、生活を守るためにありますが、政治的権力や制度が個人の良心を支配すべきではありません。また、教会が政治的権力と迎合したときに、神を離れ、堕落の道を歩んだことを忘れるべきではないと考えます。このことから、信仰の自由と政教分離の原則を主張します。しかし、教会は政治が神のみ旨に沿うように祈ります。また、教会に属する者は、社会から分離することなく、社会的責任を負い、主の愛に支えられて「地の塩、世の光」として社会に奉仕するものとして生活します。 |
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「終末」 | |
この罪の世は終わり、イエス・キリストが再臨される終末の時が到来します。この時には、キリストによって生きる者とすでに死んだ者はさばかれ、神の国は完成します。悪魔は完全に死に絶え、罪は滅びますが、神を信じ望みをもって死んだ者は肉体を伴って復活し、信じる者は完全な救いに入れられ、神とあいまみえて交わる永遠の愛の世界が実現します。この完全な神の国の到来を待ち望みます。 |
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(Apr.,1993 by watasan) | |
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