こんなものでよろしかったら
マタイによる福音書 14:13〜21
今日のお話は、マタイによる福音書の14章13節〜の5000人の給食の話です。
イエス様はバプテスマのヨハネがヘロデによって殺されたことを知り、船に乗ってそこを去り、自分ひとりで、寂しい所へ行かれました。
バプテスマのヨハネ、イエス様の働きに備えるために、荒れ野で民衆に語りかけ、悔い改めを迫ったバプテスマのヨハネ。イエス様も彼によってバプテスマをお受けになりました。そのヨハネが殺された。イエス様はどんな思いでその知らせを聞かれたのでしょうか。イエス様は、静かに一人で祈るために、そして、ヨハネの働きを心に整理し、これからの自らのお働きについて、ゆっくりと考えようとなさっていたのではないでしょうか。
でも、群衆たちは、そんなイエス様のお心も知らずに、しかも、自分の足で歩いて、岸辺を回って、イエス様が行かれた向こう岸まであとを追ってきたのです。
ある人は、一目イエス様にお会いするそれだけのために、また、ある人は、何年も苦しんできた病気を癒してもらうために、ある人は、心の傷を癒していただくために、ある人は、生活の苦しみを取り除いていただくために、そして、ある人はそんな苦しみ悲しみの中にある友人や家族をイエス様に助けていただくために、追って来たのです。
イエス様は、深くあわれんで、病人たちをお癒しになりました。本当は、一人で静かに祈りの時を持ちたいと思われていたのです。でも、必死の思いでついてくる人々のことを、ほおっておくことがおできになりませんでした。別の聖書の箇所では、飼う者のない羊のように弱っている人々を深くあわれまれたとあります。
多くの人々は、この世の中で本当の神様を見失い、何に支えられて生きていけば良いのか、自分は誰で何をすれば良いのか。分からなくなっています。今は情報化社会と言われていますが、情報を得ようとしてもしなくても、本当に多くの情報が洪水のように押し寄せてきます。テレビや新聞や雑誌や漫画や様々なメディアが私たちを取り囲んでいます。今、会社のパソコンでインターネットが使えるので、いろいろと試しにつついているのですが、どんな情報でも、即座につながって、見ることができるのです。インターネットを使って伝道をしている教会もありまして、ある教会の出しているホームページを1月に延べ10000人位の人が見ている程ですから、インターネットというのはすごいメディアだなあと思っています。このように、情報ばかりが多くて、では、何を信じて、何を心の支えとして生きていけば良いのか。本当に迷ってしまうのではないでしょうか。そして、多くの人が、新宗教、新々宗教に入り、騙され、もぎ取られ、人生を台無しにしています。健康を第一とする人々は、あれかこれかと新しい薬や健康食品、健康法に飛びつきますが、新しいものが出るとすぐに次々と乗り換えて行きます。日立造船の杜仲茶も一時のブームから比べると半分どころか何分の一にも売り上げが落ちてしまっています。
何を信じて、何を心の支えとして生きていけば良いのか。まさに、飼うもののない羊状態といっていいのではないでしょうか。
そんな人々に、イエス様は目を注いで下さり、そして、病を癒して下さいました。イエス様は、病を癒されたことで、人々に、神様はあなたのそばにおられるよ。神様はあなたのことを見ているよ。大切に思っておられるよ。心配しているよ。あなたは決して飼うもののない羊なんかじゃない。神様の御手の中にあるんだよ。信じなさい。そうすれば、あなたは神様の愛に触れることができるよ。神様の愛に抱かれて生きていくことができるよ。そう伝えたかったのではないでしょうか。
さて、夕暮れになり、あたりはうす暗くなってきました。弟子たちは、イエス様に、「ここは寂しい所でもあり、もう時も遅くなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに行かせてください。」
弟子たちは、イエス様が人々の病を癒したり、悩みを聞いておられる間、イエス様のもとに集まってくる人々のお世話をしていたと思います。でも、何か、イエス様とは違って、弟子たちと人々との間の心の交流が私には感じとれないんです。単に疲れていたからでしょうか。「めいめいで食物を買いに行かせてください。」その言葉の中に、彼らは彼ら、自分たちは自分たちという、何か冷たいものを感じてしまいます。
イエス様の弟子としての特権意識のようなものから、何か人々に対して、優越感のようなものを感じていたかもしれませんし、そういう意味で、人々がたくさん集まってくることに誇らしさ反面、何か疎ましさのようなものもあったのではないでしょうか。私がそう感じるのは、自分の中にもしかしたら、そんな思いが潜んでいるからなのかもしれません。そうなってしまわないように、気をつけなければならないと思います。
ところが、イエス様は言われます。「彼らが出かけていくには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい。」
弟子たちは驚いたでしょうね。女性と子供たちを除いて、つまり、大人の男だけで、5000人の人々がいたのです。ですから、10000人以上いたに違いありません。10000人の群衆にどのようにして、食べ物を用意できるのでしょうか。できるはずがないのです。
さて、私たちの教会は、無牧になって丁度、6ヶ月がたちました。私は初めはやる気もありましたし、楽観的に考えて、何とかなる。と思っていました。でも、日が経つに連れて、結局何もできない。という思いになって、希望がだんだんと薄れていくような感じがしています。
初めの内は求道者の方々も熱心に来ておられましたし、例え無牧でも、伝道活動をやっていける。そんな風に思っていました。でも、最近、やっぱり、牧師がいないとだめなのかなあ。と思い始めています。
でも、どんな風にして牧師を迎えれば良いのか、どうしたら、牧師を招聘できるのか。あれこれ考えるのですが、経済的なこと、人数のことなどを考えると、出口なしの迷路に入ってしまったようで、糸口が見いだせません。「神様、どうしたら良いのでしょうか。私たちには、あれもありませんし、これもありません。」そんな風に思ってしまうのです。
10000人の人々に食べさせよと言われた弟子たちも同じようであったのではないでしょうか。彼らは、10000人分のパンを持っていなかったし、それを買うお金も持ってはいなかったのです。別の聖書の箇所では、「私たちが200デナリものパンを買って来て食べさせるのでしょうか。」1デナリは約10000円と考えていいと思います。一人分の食事代が200円とすると、10000人分で約200万円です。だれがそんなお金を持っているのでしょうか。また、捧げるのでしょうか。
でも、弟子たちは、「5つのパンと2匹の魚」を差し出しました。「こんなものしかありませんけど」と言っておそるおそる差し出したのです。
イエス様は、「それをここに持って来なさい」と言われました。
牧師がいない今、自分にはどこまでできるだろうか。こんな自分でも、幾分かでも牧師の代わりをすることができるだろうか。と考えることがあります。
私には、献身の思いがありました。それは、高校生位の時からありました。変な話ですけれども、女性を好きになったときには、この人は牧師夫人としてふさわしいだろうかなどと自分のことを棚に上げて考えたこともありました。(則子と出会った時にはそんなことは全く忘れていたんですけどね。)また、大学受験の時も、まだバプテスマも受けていなかったのに、神学校へ行くことを考えていました。両親に反対されてそれは実現しなかったのですけれど。そして、その思いは大きくなったり小さくなったり、ほとんど消えてしまったり。
でも、献身することが、本当に御心なのか。神様のためなのか、自分のためにそうしようとしているのか、もしかしたら、これは悪魔の甘いささやきなんじゃないのだろうか。それが自分でも分からなくて、その思いが浮かんでくるたびに、押し殺して来た、あるいは、後に伸ばして来たように思います。
牧師がいない今、自分に何ができるのだろうか。どこまでできるだろうか。それを考えると、真剣にそのことを考えれば考えるほど、自分自身に絶望的になります。自分自身の中に福音を宣教していくだけの大きな情熱があるだろうか。人のことを自分のことのように真剣に考えられるだろうか。本当に怠惰な性格で、いいかげんで、大事なことを後に伸ばし後に伸ばしする性格で、優柔不断で、人間が苦手で、冷たくて、決断力がなくて、無口で、話が下手で、頭の回転が遅くて、機転が利かなくて、そして、聖書もろくに読んでいるわけでもない。そんな自分に何ができるというのだろうか。
それでもイエス様は、「あなたが食べさせなさい。」と言われるのです。そして、弟子たちが今ある物、彼らがやっと持っていたものを差し出したとき、イエス様は、「それをここに持って来なさい」と言われました。
「私は、こんなものでしかありません。」「私には、これだけしかありません。」そうだ。その通りだ。そんなことは良く知っている。良く分かっている。でも、そんなあなたを私は創ったのだ。そんなあなたの持ち物を私があなたに与えたのだ。イエス様はそう思っておられるのではないでしょうか。
そうです。私たちは、「こんなものでもよろしかったら」として、差し出す他はないのです。「私にはこれもあります。あれもあります。どうぞ遣って下さい。」と言える人など本当はないのです。
でも、イエス様は「こんなものでもというのか。それが私には大切なのだ。それが私には必要なのだ。それをここに持って来なさい」と言われます。
そして、それを差し出したとき、10000人の人々を満腹させるような大きな奇跡が起こる種となったのです。
「あれもない。これもない。」「ありません。ありません。」といって、何も差し出さなければ、何の奇跡も起こらなかったでしょう。自分が価値なんて見いだせないかもしれない「こんなもの」と思っているまさに「そんなもの」が、神様の業が起こる種となっていくのです。
「天国はからし種のようなものだ。それを地に蒔くとやがて大きな木になり、鳥が巣を作るほどになる。」とイエス様は言われました。
前牧師の中村先生が教会の庭に植えて下さったからし種は、背丈ほどの大きさに成長しました。本当に吹かなくても飛んでいってしまうような小さな小さな種でした。あの種を見せられたときに、それがあの聖書のからし種だよと言われなければ、絶対にあんなに大きくなると想像さえしなかったと思います。こんな種が何の大きくなるものか。と思ってしまうと思います。
でもそれを地面に植えたときに、大きく大きく成長しました。
私たちは、「こんなものしかありません」と言ってしまいます。でも、一歩神様に目を向け、期待して、「こんなものでよろしかったら」と差し出して見ませんか。そこに神様は奇跡を起こして下さるのです。
あなたが、人に見せられなくて心に蓋をして隠しているもの、手の中に握りしめて背中の後ろに隠しているものはありませんか。
あなたの「こんなものでよろしかったら」が、もしかしたら、自分自身を変え、家族を変えるかも知れません。あるいは、あなたの「こんなものでよろしかったら」が教会を変えるかも知れません。そして、もしかしたら、社会を変え、世界を変えていくかも知れません。
1996年10月13日
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