キリストを着て

マタイによる福音書 22:1〜14




今日のお話ですけれども、「盛大な婚礼のたとえ」と呼ばれるイエス様のたとえ話です。
 イエス様がこのたとえをお話になったのは、おそらく、十字架のたった三日前のこと。今すぐにでも捕らえられかねない、緊迫した状況の中でした。
 ユダヤ教の指導者である、パリサイ派の人々や、律法学者たち、サドカイ派の人々は、イエス様の言葉尻をとらえて、不穏な発言があれば、それを口実に捕まえようと、虎視眈々と狙っていました。
 しかし、イエス様はそんな彼らに向かって、真っ向から、このたとえ話しをされたのです。

 「天の王国は、一人の王が自分の息子のために婚礼を催すようなものだ。」
 王が盛大な喜びのパーティーを催され、そして、その喜びを共にして欲しいと願って、招待客を招こうとしました。
 ところが、僕を遣わしても、招待客は来ようとしませんでした。
 王は、もう一度、他の僕を遣わして、「パーティーの準備は全部整っている。すばらしい料理も用意して待っているから、ぜひ、パーティーに来て欲しい」と言わせたのですが、それでも、招待客はそれを意に介さず、ある者は、自分の畑に、ある者は、自分の商売に出かけていったと言います。全く無視されてしまったのです。
 それだけでなく、他の人たちは、呼びに来た僕たちを捕まえて暴行を加え、殺してしまった。それで、王は怒って、彼らの街を焼き払ったということです。

 さて、これは、ユダヤ教の指導者たちに対する強烈な批判です。
 同じマタイによる福音書の23章からは、ご覧になると分かりますが、痛烈な律法学者、パリサイ人批判が語られています。13節「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである。」そして、14,15,23,25,27,29節とその批判は高まり、37節には、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」とイエス様は、心が張り裂けんばかりの思いで、叫んでおられます。
 本来、神様の前に出ることができると自負している人々は、神様の招きを断りました。行きたい時にはいつだって、神様の前に行けるんだ。と思い上がっていたのかもしれません。でも、神様は、それを拒否されました。

 また、彼らの態度は、神様の呼びかけに答えようとしない、この世のある人々の態度と同じであるかもしれません。
 自分の畑、自分の商売に出ていった招待客たち、それは、神様の呼びかけを無視して、自分が正しい、自分しか頼れる者はないと信じているひとたち、自分で道を切り開いていけると信じているひとたち、そして、その先に、人生の成功を求めてやまない人たちではないでしょうか。
 自己啓発のための本というのが沢山あり、ベストセラーになっています。雑誌でも、事業に成功した人の話とかのインタビュー記事が良く読まれているようです。いろいろな情報に頼りながら、しかし、結局は自分の力で成功に向かってなんとかしなければならないのです。

 しかし、そんな価値観のかげで、輝かしい成功の正反対にいて、苦しみ、あえいでいる人もいます。

 自分の力で成功を勝ち取ろうと言う価値観。それは、素晴らしいことのように見えます。しかし、他人をも、自分の力で勝ち取りなさいと要求します。
 しかし、それらの試みが成功するでしょうか。
 私たちは、罪という弱さを持っているのです。
 パウロは、「わたしは、自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と告白しています。
 私について言えば、毎日、罪を犯し続けているといっても過言ではないと思います。妻に対し、子供に対し、職場の人々に対し、教会の人々に対し、自分自身に対し、そして神様に対し、自分では気づかないうちにかもしれないし、わかってても、ついつい、ということもあります。具体的にはちょっと言えないこともあります。

 聖書に戻りますけれども、王は僕に言います。「招待した人々は、ふさわしくなかった。そこで、誰でも良いから、街角で会う人々をことごとくパーティーに招待しなさい。」 そこで、僕たちは街角に出ていって、悪人であれ、善人であれ、見つけた者はすべて集めてきた。そこでパーティーは列席者で一杯になった。
 そこで、罪人である私たちが招かれることになったのですが、「じゃあ、私じゃなくっても誰でも良かったの・・・」 とひがむのは筋違いだと思います。この話は、あくまで、律法学者、パリサイ人に向けて話されているので、このような語調になっているのです。
 大切なのは、罪人も善人も同じように、分け隔てなく、招いて下さっている。ということだと思います。
 私たちはみな罪人です。どうしようもなく罪人だと思います。ですから、どうやって神様の前にでることができるでしょうか。本来、私たちは神様の前に出ることができないはずの者です。
 しかし、そんな私たちを、神様が招いて下さいました。だから、私たちは神様の前に行くことができるのです。それは神様の恵みです。

 ところが、婚礼の礼服を着ていない人が一人いました。そこで王は彼にいいました。「友よ、あなたはどういうわけで、婚礼の礼服をつけずにここに入ってきたのか」。しかし、彼は黙っていました。そして、王は、この男の両足と両手を縛り、外の闇の中へ放り出してしまいます。

 「そんなこと言ったって、バス停でベンチに座って帰りのバスを待ちながらタバコを一服してたのに、急に「すぐ来い」なんて腕をつかんで引っ張ってこられたから、礼服なんて取りに帰っている時間なんてなかったんだから、そこまでしなくてもいいんじゃない。」と、この男はどうして言わなかったのでしょうか?
 じゃあ、どうして、他の人は全員礼服を着ていたのでしょうか?

 この時代、お金持ちがパーティーを開いて客を招く時は、招いた側が礼服の準備をし、来て下さった人に貸し与えたということを聞いたことがあります。
 とすれば、この人は、わざと、自分の意志で、礼服を着なかったのです。

 この礼服とは何でしょうか?
 ローマ人への手紙13:14「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」
 ガラテヤ人への手紙3:27「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」
 礼服を着るということは、「イエス・キリストを着る」ということです。イエス・キリストを着るとは、「私たちの罪が、イエス様の十字架での死の代償によって、赦され、一方的に神様の前にふさわしいものとされたということを、受け入れる。」ということだと思います。そして、受け入れた証として、バプテスマを私たちは受けました。
 
 この男は、自分の罪を認めながら、それに居直り、神様が一方的に赦し、神様にふさわしいものと認めてくださることを、自分から拒否したのです。そして、最終的に神様の恵みを受けることができませんでした。

 私の信仰を振り返ると、本当に罪を犯してばかりの毎日です。せっかく、イエス・キリストという恵みの礼服を着せていただいているのに、脱いだり着たり脱いだり着たりしているのでしょうか。それとも、腕捲りか、ボタンがはずれたのか、引っかいて破れたかで、その隙間から罪が出てくるのでしょうか。
 いいえ、私たちが十字架の恵みに感謝し、喜び、あるいは求め、それに目を向けているかぎり、イエスキリストという礼服は、私たちを守ってくださいます。
 私たちは、イエス・キリストという決して変わることのないお方を見つめ続けていきたいと思います。

                             1997/6/15

                                綿谷 剛



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