輝いて生きる

ローマ5:8


English Version

 しかし、神は、私たちがまだ罪人であった時に、キリストがまさにその罪人であるわたしたちのために死んでくださったことによって、私たちに対する自らの愛を示されたのである。

 先日、テレビで少年犯罪の特集をしていました。
 おやじ狩りやバイク狩り、真っ昼間にいきなり見ず知らずの人に暴力を振るったり、それから援助交際など、、、
 罪の意識も薄く、ゲーム感覚でやっている彼ら。警官にどうしてやったのかと問われて、「他に何もすることがなかったから・・・」というような答え。
 彼らの姿を見ていて、なぜか、涙が出て止まりませんでした。
 彼らは、自分の人生に何の目的も見いだせず、何の希望も見いだせず、そして、自分自身に価値を見いだせずにいるのでしょう。

 親たちや学校や世間は彼らに何をメッセージとして伝えて来たのだろう。何を教え、そして、何を教えなかったのだろう。そんな風に思います。
 そして、私たちは自分の子供にどんなメッセージを伝えて行けばよいのだろうと思います。
 
 多くの人々が自分自身の生き方に自信をもつことができないで生きています。自分自身がどこから来て、どこに行くのか、漠然とした不安の中で生きていると思います。
 そんな中で、どうやって子供たちに人生の意味や生きる価値を教えていったらいいのでしょうか?

 さて、最近、パウロの手紙、特にローマ人への手紙を読む機会が与えられています。その中で、信仰による救いと行いの関係について、多く学ばせていただいています。
 あるノンクリスチャンの方は、よい行いを行っていくことによって、神さまに近づいていくんだと考えておられます。そして、あるクリスチャンの方は、信仰によって救われたからには、もはや行いは要求されないとおっしゃいます。
 しかし、聖書は、どちらの意見も正しくないと言っています。

 パウロの手紙を要約するとこうです。

 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
 忍耐強く善を行った者には、永遠の命をお与えになり、不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。

 ユダヤ人たちは、律法に頼り、律法を守ることによって義とされると信じ、人にもそう教えています。

 しかし、義人はいない。一人もいない。といわれるように、全ての人が皆、罪を犯して、神の栄光を受けられなくなっています。律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされません。律法によっては罪の自覚が生じるだけです。

 ところが、律法と関係なく、神の義が示されました。それは、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた私たちは、バプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 私たちの古い自分はキリストとともに十字架につけられ、罪に支配されていた体は死にました。そして、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きています。
 あなたがたの体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に捧げ、またその体を義の道具として神に捧げなさい。

 自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける供え物として献げなさい。
 心を新たにして、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

 これが、ローマ人への手紙の要約です。

 これを読んでいて、これらの御言葉の中に、人がどこから来て、どこへ行くのか、そして、人生の目的、私たちが生きる価値といった問題が全て含まれているように思いました。
 
 私たちは、神さまによって造られました。偶然によって、私たちが生まれて来たのではありません。創世記で神さまが世界を造られたとき、それを見られて、「これで、よし」と言われましたけれども、私たちも神さまの目に善い者として、きっと造られたのだと思います。
 でも、私たちは、それとは逆に、神さまに背を向けるように、罪を犯しながら生きてしまうんです。そして、罪は神さまとわたしたちの関係を断ち切ってしまいます。そして、神さまが私たちを造られたことも、造って下さった目的も、そして、造られた私たちの価値も意味も、分からなくさせてしまうのだろうと思います。

 今日の聖書の箇所では、イエス様は、私たちがまだ、弱かった頃、また、罪人であったとき、私たちのために死んで下さいました。それによって、神は私たちに対する愛を示されました。とあります。
 神さまは、私たちが弱くても、罪深くても、何もできないような者であっても、自分自身に何の価値も見いだせない時であっても、私たちのことを愛して下さっています。自分自身の生きる意味も目的も分からないときでも、神さまは私たちのことを愛して下さっています。
 イエス様の十字架、それは、そんな私たちの身代わりの死です。私たちのために涙を流し、血を流し、そんな私たちの罪を負って下さったのです。

 神さまがどれ程私たちのことを愛して下さっているか。

 人生の目的。私は、教会に通い始めた頃から、その言葉を聞き続け、神を知らない人は人生の目的が分からない。そのように聞かされてきました。でも、肝心のその「人生の目的」というのは何なのかということを聞かされませんでした。何かはぐらかされているような気がしてなりませんでした。
 しかし、パウロの手紙を読んで気づいたことは、私たちを限りない愛で愛して下さった神さまの愛に応えて生きること。それが、私たちの生きる目的ではないでしょうか。
 具体的には人それぞれ違うかも知れません。でも、自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける供え物として献げなさい。という言葉に要約されていると思います。
 私は、この言葉を、この世のこととは切り放された霊的な世界に身を置くことのように考えていました。でも、パウロの手紙を読んでいて、そうではないことに気づきました。
 パウロは、「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」と言っています。霊というと、神秘的なイメージがあります。でも、パウロが「聖霊に従った新しい生き方をしなさい」といっているのは、何もこの世と離れた何か神秘的なことを言っているのではありません。パウロが「聖なる生活」と言っているのも同じ事です。
 神さまが、そしてイエス様が私たちを愛して下さったように、その愛を受けたのだから、その愛に応えて、互いに愛し合いなさい。それが、霊的な生き方、聖なる生活なのではないでしょうか。そして、それが、神さまの願い、神さまの思いなのではないでしょうか。それが輝いて生きるということだと思います。
 神さまは私たちを造り、私たちを救い、私たちを生かし、そして、神の国すなわち、愛の国の建設のために私たちを用いようとされているのではないでしょうか。

 私たちは、自分自身が救われた意味、生かされている意味をもう一度、確認するとともに、自分自身を見失って、生きる意味を失っている人々に、「そうではないんだよ。私たちには輝いて生きる命が与えられているんだよ」って語りかけることができたらと思います。
 教会はきっとそのためにこの世に建てられているんだろうと思います。

  October, 26, 1997
  綿谷 剛



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