神我らと共にいます

マタイ1:23




 クリスマスということで、街もきれいにかざりつけがされて、とても楽しい雰囲気になっていますけれども、最近ちょくちょくと出張することがあって、東京や福岡など大きな街を歩いたりしていて思いますが、本当に近頃はどこでも街路樹やオブジェにイルミネーションが飾られて、きれいですね。でも、ふと気づいたのですが、ひと昔前までは、クリスマスのイルミネーションというと赤や青や黄色の電飾が点滅して、それはにぎやかだったように思うのですけれども、最近のはやりなのでしょうか、ほとんど単色なんですね。これ何色っていうんでしょう。蝋燭の炎の色って言ったらいいんでしょうか。ひと昔前のいろいろな色のイルミネーションは、楽しさとか豊かさをかもし出していたような気がするんです。きっと、私たちがそういうものを求めていたのかもしれません。そういう時代だったのかも知れません。それに対して、最近の単色のイルミネーションは何か神秘的なものを感じます。心が洗われるような感じというか、何か宗教的な雰囲気をかもし出しているような気がしてなりません。多分、今の人々が単に経済的な豊かさ、暮らし向きの良さではなくって、心の充実感とか、そういったものを求めているのではないだろうか、そんな風な感じを持ちながら、12月の夜の街を眺めたりしていました。
 さて、今日、私が皆さんと分かち合いたいと思っていますことは、21日のクリスマス礼拝の時の安原姉妹のメッセージのテーマでもありました「クリスマスの意味」についてです。よく、クリスマス礼拝の案内に「本当のクリスマスを教会で」と書いてあったりしますし、そのメッセージの中で、「ちまたでは、にぎやかなクリスマスマスムード一色であります。でも、本当のクリスマスは教会で云々」と言われたりします。でも、やっぱり、クリスマスのたびに、私にとって本当のクリスマスって何なのだろうって確認していくことが必要だと思いますし、大切だと思います。日曜日の礼拝メッセージとは少し違った見方から「クリスマスの意味」について考えて見たいと思っています。

 皆さん、クリスマスに神さまに願い事をしたことがあるでしょうか? 多分、日本のクリスチャン達の間ではあまりそんな風習はないようですけれども、アメリカではアドベントになると、子供たちはクリスマスリストというのを書くそうです。何か七夕の短冊のことを思い出すのですけれども、今年はサンタさんに何をプレゼントしてもらいたいかってことを書いて置いておくそうなんです。すると、25日のクリスマスの日の朝にツリーの下にリボンをかけたプレゼントが置いてある。そのクリスマスの日を子供たちは指折り数えて楽しみに待つそうなんです。 このクリスマスリストの習慣にも表れていると思うのですが、私たちが神さまを求める時に、まず何か願い事がある、その願い事をかなえて下さる方として、神さまを求めていることが多いと思うのです。「苦しい時の神だのみ」という言葉があります。苦しい時に神さまに助けていただく、それは素晴らしいことだと私は思っているのですけれども、願い事がまずあって、その願い事があるときだけ神さまを信じるというのはどうなのでしょうか? 自分の願いをかなえて下さる方として、神さまを見る。それは、もしかしたら、神さまを自分の願いをかなえるための道具にしてはいないか、召使いにしてはいないか、ハクション大魔王やドラえもんと一緒にしてはいないかと問い直してみる必要があると思います。
 多くの宗教やそれに類するものは、そのような神さまを示していると思います。「この神さまを信じれば、あなたの思い通りのあなたになれますよ。」 これは魅力的な言葉ですよね。 よく、新聞のチラシなんかに誇大広告だといつも思いながら見るのですが、この絵を飾ると幸運が来ますとか、この彫刻を買うと宝くじに当たりますとか、この印鑑を買うと幸せになれますとか、多いですね、この類のものが、、、。 それから、ある宗教では、超能力が与えられますと言ってみたり、自分を変えることができますよと言ってみたりします。そして、多くの人がその魅力的な約束を得るために、信じていくのだろうと思います。

 イエス様がお生まれになる頃の状況というのは、長い長い間、他の民族の支配の下にあって、イスラエルの人々は民族の誇りを踏みにじられていました。自分たちこそ神の民であるのに、それが他民族の支配の屈辱のもとにさらされている。そんな中で彼らは、そんな惨めな状況から救い出してくれるメシアを待ち望んでいました。きっとメシアが現れて、敵から自分たちを解放し、新しい自分たちの王国を築いてくれる。そんな強い期待を持っていました。そんな中で、イエス様はお生まれになったのです。
 ところが、そのご誕生は、まるで彼らの期待を裏切るものであったのです。私たちはイエス様のご誕生を神秘的なロマンティックな物語として受けとめがちなのですけれども、悲惨な状況の中でのご誕生だったのです。まず、イエス様は処女マリヤよりお生まれになった。聖霊によってお生まれになったのですけれども、そのことを信じることができたのはきっとマリヤとヨセフだけだったでしょう。人々はきっと、婚約者ヨセフがあるにもかかわらず、誰かわからないものとの間にできた子、罪によってできた子と噂したに違いありません。それから、家畜小屋で人知れずお生まれになったと言うこと。馬小屋ということになっていますが、聖書にはそうは書いていません。洞窟であったかも知れません。宿屋には彼らの泊まるところがなかったからと書かれていますが、マリヤとヨセフは人間として扱われなかった。その生まれたイエス様も人間としてさえも扱われなかったと言うことです。布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせられたのです。そして、誰がその誕生をお祝いしたのでしょうか? 社会の底辺でぎりぎりの生活をしている羊飼い達だったと聖書は伝えています。
 イスラエルの人々は、自分たちを敵の支配から解放してくれる英雄メシアを期待していました。その彼らの期待を全く裏切った形でイエス様はお生まれになったのです。彼らの誰がこの赤ちゃんを来るべきメシアであると考えたことでしょうか? 誰も心にも留めなかったのではと思います。

 神さまは何を考えて、御子をこのような惨めな姿で惨めな状況の中に人として生まれさせられたのでしょうか? どうして、この惨めな方のことを神の子としてあがめることができるのでしょうか? 私の願いをかなえてくださる方、私を苦しみの中から救い出して下さる救い主は、もっと、力強い方、豊かな方、麗しい方でなければならないのではないでしょうか? このことは、イエス様の最後についても言えると思います。私たちは十字架をアクセサリーにしたりして、クリスチャンでなくても若い人たちの間でとても人気がありますけれども、十字架は死刑の道具です。イエス様はいわれのない罪に問われて死刑にされたのです。それも支配者のピラトの裁判を受けて殺されたのです。こんな救い主がいるでしょうか?
 
 しかし、私は、御子イエス様は、神さまの本当のお心を私たちに伝えるために、人としてこの世に来られたのだと信じています。それは、イエス様の誕生が私たちにあまりにも的外れな方法に見えるということは、とりもなおさず、私たちの神さまへの思い、神さまへのアクセスの仕方があまりにも的外れだったんだということを示していると思うのです。
 マタイ福音書の1章23節で、その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我らと共にいます」と言う意味である。と聖書は語っています。
 神さまは、私たちの願いや願望によって作り出された産物ではありません。私たちの願いを叶えるために存在している召使いではありません。神さまは、始めから存在しておられるお方であり、すべてのもの、すべての存在するものを存在させておられる方です。そして、その神さまが、「あなたとともにいる」ということをイエス様を通して示して下さっているのです。。私たちの願いをかなえるために存在する方としてではなく、私たちを存在させておられる方、私たちを生かして下さっている方として、私たちとともにいて下さるのです。
 マタイ福音書の一番最後の所で、イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃって下さっています。

 私たちは、クリスマスにいろいろな願い事をするかもしれません。神さまに遠慮なく、あからさまに信頼して願い祈ることは良いことだと思います。神さまは願い事を聞いて下さらない方だと言っているのではありません。しかし、そこで自分が何を求めているのかということを、少し考えてみることも大切だと思います。私たちは何を求めているのでしょうか? 私たちはきっと幸せになることを願うでしょう。健康であること。災難や苦しみに遭わないこと。争いごとがないこと。暮らし向きが良くなり豊かになること。無病息災、家内安全、五穀豊穣、、、、、。
 でも、イエス様は言われます。
 心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。
 悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
私たちが幸せと思っていることと、イエス様が「幸い」と言われていることはかなり違っているように思います。ここで言われている「幸い」は「祝福」と言い換えられるかも知れません。あなたがたは神さまに「祝福」されているということだと思います。
もう少し言い換えると、あなたは、今のあなたのままで、今そこにいるあなたのままで、神さまから「良し」とされている。あなたは、こうなりたいと願いをもっているかもしれない。しかし、今不足を感じているあなた、苦しみの中にあるあなた、悲しみの中にあるあなた、そのあなた自身が神さまに受け入れられている。その今の状況の中で、神さまはあなたとともにいてくださっている。ということです。
 私たちは、これが欲しい、あれが欲しい、こうなりたい。ああなりたい。と思うものです。そして、それを実現するために神さまの存在やイメージを作り出して、それに祈ろうとするのです。でも、そんな私たちの願いよりも前に、神さまはいて下さって、「私はここにいる。」「私はあなたを造ったのだ」「私はあなたを愛している」そして、「あなたとともにいるのだ」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。
 そのことを本当に私たちに伝えるために、神の御子イエス・キリスト様が人としてこの世においで下さった。それがクリスマスなのではないでしょうか。私たちは、神を認めない者ではなく、願いによって神を造る者でもなく、私たちを造り、生かし、共にいて下さる神さま、イエス様と共に歩む者として、生かされていきたいと思います。そして、イエス様と共に、人を生かし、人を愛し、人と共に生きる者になっていけたらと思います。
                         1997.12.24
                               綿谷 剛



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